軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

入院日記 地獄篇 (その10)

≪おほうなばら様≫のコメントで、ターシャ・テューダー女史が今月18日に亡くなったことを知った。たまたまこの時期は家内と共にDVDを見て癒されていた頃であった。そのすばらしい生き様に感動し、あとを継ぐであろうお孫さん夫婦に期待をこめつつ・・・
ターシャ・テューダー女史が、天国の花園で安らかに過ごされることを祈りたい。
 また、≪百道原様≫から、≪自衛隊は決してクーデター云々・・・≫というコメントがあったが、たまたま一昨日の夜、友人の元記者さんから見舞いの電話を頂き、「この国はどうせ滅びるんだから、一人で突っ張って身体を壊すのはバカ!愚の骨頂!もう退官したんだから残った人生を楽しまなきゃー!」とハッパをかけられた。そういわれると黙っておれない性格だから「そんな無責任なことでどうする!誰がこの国を立て直すのだ?」とついつい言い返すと彼はこういった。
「だってこんなデタラメ政治、昔ならクーデターだよ。でも自衛隊にやる気ないじゃん!だからあほな政治家がのさばっているのさ。一人一殺以外もうこの国は救えない!秋葉原で通行人をやるんじゃなく、永田町に行けばよかったのに!」という。
 いやはや何とも物騒な言葉が平然と飛び交うようになったものだ、冗談にしても度が過ぎる、と空恐ろしくなったところであった。


 家内が持ってきてくれた手紙類の中に、「亜細亜地政学研究」という小冊子が入っていた。千葉にお住まいの福多久氏が発行している文集で、私のような元戦闘機乗りには難解なのだが、第48号は大いに考えさせられた。福多氏はその中で、世の「論語ブーム」についてこう書いている。
 昭和十六年、徴用を受けて蘭印ジャワに渡った作家北原武夫は「論語」を行李に忍ばせて戦場に持参し、論語を読み返してみて「一昨年読んだ時そんなに面白かったという」事実に対して、「次第に疑念を抱くようになった」と書いたのに続けて、「あの論語などという本があんなに面白かったというのは、どうもやはり少し可笑しい、あれは確かにあんな風に(下線原著)面白い本ではなかったのだ」という考えが彼の中で次第に強くなった、と痛感した。
 その後彼は「薔薇について」と題した文章の中で、「戦争を経験したことを有り難い事だったと述べるのに加えて、戦場で、真に武人とも言うべき二、三の優れた軍人に接したことを、一層有り難い事だと感じていると書いた。それは、前記の彼の『論語』体験に深く根ざしていて、つまりは戦争が徹底した行為の世界であって、そういう世界を生き抜いてきた人物たる軍人は、又徹底して行為の人であるということを、優れた軍人に接したことによって認識を改めて重ねたという事である。徹底した行為の世界の人である軍人の生命とするところは、また、徹頭徹尾行為の中にあるのであって、他の何物の表現に依拠することも出来ない。実際にやったかやらぬかに依って、その行為評価は全てが決する。その意味では芸術家との相通性があり、手探りで未知の世界に一歩一歩突き進む。その一歩一歩が創造であり、戦争における彼の行動が、実際にやって見なければその結果について予測がつかぬという点では、全く芸術家のそれと同じである、と福多氏は言うのである。
 更に福多氏は「無論、彼は国家が危急に瀕しても小説家は小説だけを書いていればいい、などと言っているのではない。解り難いかもしれないが、己の仕事の生命が表現の世界にあると信ずることと、行為の世界にあると信ずることとでは、まるでその『覚悟』が違っているのだという簡単明瞭なことを彼は言っているのだ。そして敢えて言えば、武人や志士や孔子のような人物の書を文学的に読むことの危険と、実行の世界の基準によって文学書を解することの危険を彼は指摘した」と云う。
 福多氏は「当節の文学者、学者、ジャーナリストにしても『決闘眼になって』国際問題もしくは国内問題に『没頭』したわけでは決してない。」だから「首相は中国政府がチベット弾圧を止めない限り、北京五輪開会式出席を見合わせるべき」だとか「尖閣諸島東シナ海問題で譲歩するな」といっても、「筆と爆裂弾とは一歩の相違があるばかり」と信じて「死身」になったわけではない。
 筆は爆裂弾よりも強いと信じているならば、否々、言葉でもって築き上げられる世界というものが、およそ現実の世界とは似ても似つかぬものだという事を肚の底から納得させられているとしたならば、『人生問題の研究に従ふ真剣な』文士が、爆裂弾を投げる革命家に対してのみならず、政治家や実業家に対しても一歩も引け目を感じるには及ばない筈である」という。
 教育課長時代に大磯の御自宅でお会いした福田恒存先生は「言論の虚しさ」「非力さ」を語られ、“徹底して行為の人”である戦闘機乗りの私に対して、実行の世界の基準でものを見ることの必要性と危険性を説かれたものだったが、私も『ペンは剣よりも強し』と世間で言うことに常々違和感を覚えていた。
 要は、現代日本各界士に「真剣さ」が欠如していて、文も武も、「言葉のお遊びに興じているに過ぎない」ということなのであろう。


 点滴棒を押しながら洗面所に行き、不自由な姿勢で歯を磨き髭をそり、洗顔しつつ、いささかやつれた自分の顔を見ながら、改めて生きていることの意味を考える。『貴様にはまだやることが残っているのかどうか?』と。
 病室からは、相変わらず子供のようなかわいらしい?『朗読』の声、叫び声が聞こえてくる。虚空を見つめている老女達は何を思っているのだろう?彼女達にも「恋の喜び」に輝いた青春時代があったはずだ・・・
 左隣の老女はめっきりおとなしくなった。おそらく黄泉の世界からの「お迎え」の相談でもしている?のだろう。その昔、義母が同じような末期症状だった時、突然『まだだめ!まだ逝かない!』と腕で宙を払って叫び、点滴棒が揺れて驚愕したことがあった。驚く家族に向かって彼女はこう言った。
「あそこ(壁)にもう一人私がいるでしょう。あれは私の幽体よ」
 きっとお迎えが来ていたに違いなかった。義母はそれを断ったのである!
 義母もターシャ・デューダー女史も、今や“点滴棒”から解放された「完全な自由世界」にいる筈だ。重々しいクラシックをポップスに切り替えて横になった。   (続く)

福田恆存評論集〈第12巻〉問ひ質したき事ども―言論の空しさ

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日本への遺言―福田恒存語録 (文春文庫)

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軍神―近代日本が生んだ「英雄」たちの軌跡 (中公新書)

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