軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

入院日記 第2幕「極楽篇(その4)」

 昼食は葛湯、コンソメ、カルピス、それに市販されていない?ドリンク剤であった。栄養士さんが入ってきて、一人ひとりに食事について聞いている。
Sさん「ありがとうございま〜す。美味しいです!でも看護婦さん、もう少し量を増やして下さい!」
栄養士「分かりました。佐藤さんは今晩からおかゆになります」
 なかなかアフターケアが行き届いている。
 2時過ぎ、入り口付近で「Sさん、あなたタバコののみすぎよ!」とベッドのSさんに、老女Aさんが入り口に立って厳しく説教?を始めた。
Sさん「でも俺、一日に一箱くらいですよ」
Aさん「だめだめ!あんた入院中の身でしょう」
Sさん「だって俺、悪いところは足だよ。関係ねージャン」
Aさん「とにかくタバコは毒だから止めなさい!私も10年前に止めたのよ」
Sさん「今としいくつ?」
Aさん「85」
Sさん「じゃあ、75で止めたわけ?それだけ飲めば十分だよ。いつから飲んでたの?」
Aさん「18の時から酒もタバコもじゃんじゃん・・・」
Sさん「法律違反ジャン」
Aさん「その頃はそんな法律はなかったの。私しゃチュウシにいたから・・・」
Sさん「キュウシュウのどこ?」
Aさん「九州じゃない、チュウシ、支那で今度地震があった付近よ。中支よ」
Sさん「地震?なんだ中国か」
Aさん「中国じゃない、当時はシナといったの」
Sさん「シナね、18から行ってたの?すげーや」
Aさん「そうよ、チャン●●はとんでもない連中さ、信用出来ネー。酷い連中よ。でもあそこは大統領がいつも悪いのよ、せめて蒋介石くらいのが出ないとだめ、カワイソーな連中さ」
Sさん「そんなもんかね〜。俺にはワカンネーけど」
 点滴をうっていなかったら、カーテンを開けて会話に参加したかったが、実に残念。Aさんは85歳だといったから大正12年(1923年)生まれ、18歳で中支に滞在していたということは、昭和14年(1939年)か15年時点である。私が生まれた頃にはシナ大陸にいた計算になる。昭和15年3月30日に南京において、中華民国の新中央政府が成立し、日本は汪兆銘による日華全面和平到来を期待していた頃である。
 昭和12年12月の南京陥落後、戦況は一時安定していたが、昭和13年6月に華北、華中間の連絡を目的とした徐州作戦が実施され、武漢・広東攻略作戦が行われた。そして10月下旬には双方共に陥落し、国民は提灯行列でこれを祝ったものであった。この前後に、いち早く「民間人?」たる18歳の女性が、既にその地域に“進出”していたというのだから驚きである。当時の職業は何であれ、住んでいた場所だけでも分かると、少なくとも南京の実情くらいは知っているだろう、と思った。つまり『幻の南京大虐殺』と当時のシナ大陸の実情について話を聞きたかったのである。
 しかし、まさかカーテンを開けて、点滴棒を引きずり出して突如会話に参加することもままならず、次回是非直接話を聞きたいと思った。

 Sさんの母親が入ってきて「いや〜驚いた。昨日は帰るときにエレベーターに乗ったら、3階から“仏さま”が乗ってきて一階まで一緒。今日は“仏様”に会わないように、階段を上がってきたらバッタリ会ったの」
Sさん「そんなのしょっちゅうだよ。一日に2〜3人は地下に運ばれてるんじゃない?集中治療室で心臓の音が消えると箱に入れて『ハイッ、これ下に下ろして』だもんな、看護婦さん。物だよ物、でもよ、看護婦さんの身になって見ればいつものことだし、いちいち情けかけては居られない。死んでしまえば確かに『物』だもん、そう言うようになるのも当然ジャン」
おふくろさん「でも玄関に霊柩車はなかったよ」
Sさん「当たり前ジャン、地下の霊安室に一旦運び、そこから霊柩車に乗せるのさ。でも最近はよ〜。ほとんど霊柩車は使ってないよ」
Yさん「じゃ何で運ぶの?」
Sさん「たいていライトバンかワゴンだぜ。ほらあるじゃん、ケアセンターとか養護施設○○とかなんとか書かれたワゴン車、あれさ」
Yさん「エッあれで死んだ人も運んでいるの?」
Sさん「そうじゃない?それかそのケアセンターから入っていた人かも知んねーけど・・・」
Yさん「知らなかった・・・」
おふくろさん「お前良く知っているね」
Sさん「当たり前ジャン、俺、リハビリで病院中歩き回っているモン、特に雨の日はそうさ、だから良く知ってるよ。一日に2〜3は見るな」

 4時前に家内が見舞いに来る。食堂で面談するが、家内もエレベーターは「ゾクゾクッ」するからいやで階段で来たという。「考えすぎだよ」というのだが、Sさんの体験談を聞いた後なので、何とも奇妙に思う。
 
 Kさんが退院と決まったようだ。医者が来て検査の結果「一過性脳血栓」と告げていたが、もともと血圧が高いKさんは、種々の血圧安定剤を飲んでいたらしい。
「これ以上入院していても施すすべはないし、一過性で安定したのだから自宅で普段どおり過ごされれば良い」という医者の言葉を聞いたKさん「91歳だから残すところは数年あるかないか、そんな老いぼれに高級な治療を施すのは無駄無駄!」といったが、医者も正直なもの「まあ、そんなところです。お大事に」といって出て行った。

 夕食は始めて粒が入ったおかゆ(それも塩味がついている!)、味噌スープ、オレンジジュース、野菜のポタージュ、生き返った気がした。
 粥をすすりながら、北朝鮮人民はどんな食事を取っているのだろう?とフト考えた。そう思うと何と無くもったいなく思われて、お粥のおわんを舐めたくなった!  (続く)

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