軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

北京五輪、「無事」終了!

 17日間にわたった北京五輪は、昨日無事終了した。閉会式も極めて「派手な」演出で、打ち上げられた花火の数は相当なもの、「対空砲火」以上の壮烈さだったが、何はともあれ、総指揮を取った著名な映画監督・張芸謀氏にはご苦労様と申し上げておきたい。
 この間、国威をかけた中国政府は、近隣空港を閉鎖したり、デモ行進を届けさせた上で「不許可」にしたり、インターネットを制限したりと、テロ対策?にはかなり苦労したようだが、成功させねばならない政府としては当然のことで、大過なく?終了したことは祝うべきであろう。
 米国人が刺殺されたり、各地で各種のテロも続いたので戒厳令下のような「官製運動会」ではあったが、参加人員が1万1千人を越えた五輪は前代未聞、IOCのロゲ会長は「中国組織委員会は選手本位の大会を運営した」と褒めていたが、中国政府が約束を守らなかったことも「認めて」いる。特に「民主化」という点では疑問が残る大会だったが、それは予想通りだったというべきかも知れない。
 今後は、日本のメディアには期待できないことを、中国国内で取材を続けたCNNやBBC等、西欧のメディアが中国の人権問題などを批判し続けるに違いないからそれに期待したいが、その意味でも中国の内情の一部が国際的に知られるようになったのは歓迎すべきことであった。
 危機管理に関心がある私は、インターネット情報などで各種の「抗議活動」が伝えられるたびに日本の参加選手が巻き込まれないよう案じたのだが、中でも17日に未遂に終わった「青島空軍基地襲撃事件」は危なかった。二人?のテロリストが基地を襲撃して空軍機をハイジャックし、メイン会場に突っ込む計画だったというのである。
 北京上空には厳重な飛行制限が加えられていたから、裏をかいて軍用機を使おうとしたらしいが、事前に取り押さえられ未遂だったのは軍の警備意識が徹底していたからだろう。問題は既遂、未遂を問わずこれら事案の今後の後始末と、五輪成功のために集中して消費された経済的負担をどう解消するか? また、それに伴って当然生じるであろう人民の不満をどう処理するかだが、27,28日に北京社会科学院、軍事科学院一行との「対話」の機会が控えているので大いに関心を持って会議に臨みたいと思っている。


 ところで、今朝の産経新聞10面「風を読む」欄に、五十嵐論説副委員長は、今大会を短く旨く解説している。彼も五輪後を心配しているのだが、「大イベントの余韻冷めやらぬ中で、国際社会の関心は早くも、そのこと(五輪後)に集中している。競技結果そのものは、『加油』の大合唱の元、中国勢が予想通りのメダルラッシュ国威発揚という北京のもくろみは見事に的中した。胡錦濤政権はさぞや鼻高々であろう。
 だが、国際社会で最大級のイメージアップを図り、大国としての地位を不動たらしめんとした今ひとつの野望については、お世辞にも成功したとは言い難い。
 チベット騒乱に続く聖火リレーでの相次ぐトラブル、開会式などでの常識はずれなヤラセと過剰な警備体制は世界の顰蹙を買った。
 四川大地震も同情とは裏腹に、不可思議な対応が近代国家への道なお通しの印象を世界中に焼き付けた」
 そして五輪後の不安の一つは経済であるとして「株価下落」「指導部が避暑地で五輪後の経済について話し合った」事、次に「ナショナリズムのはけ口」を気にしている。
「中国の蹉跌は日本への影響も大きい。だが知人の中国人ジャーナリストはその懸念を一蹴する。『中国を西欧の物差しで見ると誤る』と。さて、五輪開催は中国に吉と出るか凶と出るか。世界は固唾を呑んでみている」

 中国人ジャーナリストが言うとおり、海洋国・農耕民族の日本人が中華思想の大陸人を“曲尺”“鯨尺”で見てはならないのである。我々の生活様式や思想に従ってもらう必要もなく、五輪開催がかの国にとって「吉と出ようが凶と出ようが」近隣諸国はじめ国際社会に『多大な迷惑』さえかけなければ良しとすべきなのであり、「固唾を呑んで」見るほどのことでもあるまい。それよりも我が国自身のありようを再検討して「それ」に備えるべきだと思う。
 ただ、競技を垣間見て私も日本国の将来に不安を感じたのだが、学生時代に剣道を体験したくらいのアマチュアーだから、ここでは他人の言葉を借りることにする。
 30面に興味あるコメントが出ている。まずノンフィクション作家の長田渚左氏は、日本チームでは「女性の活躍が目立った」として、その背景に「日本は女性がスポーツを続ける環境が整っていること」「女性がアスリートとして認知されてきたこと」を挙げ、「女性は結婚、出産でしぶとさが出てくる」「男性陣は自分の実力に対するプライドが先行し、心が折れると軌道修正できない例が目立った。精神的なタフさを身につける必要がある」と語っている。「未婚・未出産」の女性選手がどう感じたかは知らないが、男女の差から生じる一般的な観察だろう。そのうえ最近は一般的に男性の方が軟弱?だから、女性の方が本能的に「強く」なりつつある、と私は感じている。

 五輪評論家?の伊藤公氏は「北京開催は時期尚早だった。施設は素晴らしかったが、観客からすると開かれた五輪とは言い難い。安全優先で入場に時間がかかり、会場にも公安警察の姿が目立った。選手と観客との隔たりが目立ったマラソンは、従来の五輪ではあり得ない。観客のマナーにも問題があった。他国の選手の集中力を乱すような行為があった。開会式も同様。伝わったのは『偉大な中国』と云うメッセージのみだった。窮屈な大会は厳しく評価すべきだ」というのだが、「偉大な中国」を宣伝するのがかの国の最大の目的だったのだから、大会は大成功だったのであり、『中国を西欧の物差しで見ると誤る』のである!

 考えてみるが良い。13億人もの人口を抱え、普段でさえも国内で言語が通用しにくいお国柄、マナーなんて学校で教えられてはいまい。期待するほうが無理なのである。
 公安がいたるところで目を光らせていたから、テロなどによる被害から守られて、無事に帰国できたのだから外国人たちは感謝すべき、というのがかの国の見解だろう。
 それよりも、メダルを勝ち取った選手たちは、今までは“怖気づいた政治家や外交官たちには絶対に”なし得なかった偉大な業績を上げたことを忘れてはならない。すなわち北島選手たちは、北京の空に高々と日の丸を掲げ、シナ事変以来?堂々と国家・君が代を吹奏させ、文句なく中国人たちを起立せしめたのであり、私はその点を高く評価している。

 最後に特記すべきことは、ふるわなかった男子マラソンで、恩師の教えを忠実に守って金メダルに輝いたケニアの「ワンジル選手」が「日本の皆さん、ありがとう』と流暢な日本語で北京からお礼を送ってくれたことである。
 彼は15歳の時に仙台育英高校に留学生として来日し、総監督だった渡辺高夫氏に徹底的に『我慢の精神』を叩き込まれた。渡辺監督は彼に「ケニア人の身体能力に日本人の我慢が身につけば、メダリストになれる」といい続けたという。
 高校2年の時に高校駅伝大会で優勝すると「ボスの言うとおりだった」とワンジル選手は渡辺監督に言ったというが、朝の練習には誰より早く来て、移動に使うマイクロバスを掃除する。「バカが付くくらい、まじめ」と渡辺氏は彼を評価するが、3Kとして忌み嫌う青年が増えた今の日本には「バカ」がつくくらいの真面目さが失われている、と思う。 卒業後彼はトヨタ自動車九州に進み、ハーフマラソンにデビューしているが、ケニアの後輩に仕送りしたこともあり、東北弁と博多弁が理解できるというから嬉しくなる。

 ところがそんなワンジル選手に渡辺監督は「『ケニア人であることを忘れては駄目。日本人に同化したらつぶれちゃうよ』と言い聞かせてきた。日本人にない闘争心や勝利への執着こそが、圧倒的な走りを支えてきたからだ」と31面に記者が書いている。
『日本人に同化しては駄目』『同化したらつぶれる』との表現には多少同意しても、『日本人にない闘争心や勝利への執着』という表現には愕然となる。

『見敵必殺』『食うか食われるか!』を合言葉に、5G以上もの加重に耐えて、歯を食いしばって格闘戦訓練に励んできた元戦闘機乗りの私だけが感じる「違和感」なのだろうか?何時から記事のように、「闘争心」や「勝利への執着」が「日本人にない」と断定されるようになったのだろう?

 最も、成績がふるわなかったのは、この国の総理大臣が「せいぜい頑張って」と声を掛けたので、若者達が「出来るだけ」ではなく、「どんなに多く見積もったところで、それが限度(新明解国語辞典)」と誤解した結果だったのかもしれないが・・・
 とにかく祭りは終わったが“2008年危機”は続いていることを忘れてはなるまい。

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