軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

悲観論が多すぎる!

 100年に一度の経済恐慌と騒がれるからか、日本の報道には『悲観論』が多すぎる。軍事作戦でも、敵の勢力が我を凌駕している時は、じっと戦力を保持して温存し、チャンスに攻撃に転じるものである。そう思っていたら、今朝の産経「正論」の「悲観論と決別し明るい日本を」という笹川陽平日本財団会長が同じ意見を書いていたから嬉しくなった。「日々、新聞を読みながら時にイラ立ちを覚えることがある。日本の現状、将来を暗く悲観的にとらえる記事が多すぎるからだ」「悲観ばかりしていていたのでは、できることもできなくなる。世界が大きく変わろうとしている今、自虐的な悲観主義との決別こそ必要である」というのだが、このような日本マスコミ界の発想が、戦後の自虐史観に繋がっていて脱却できないのだ、と私は思っている。
 笹川氏は先月「正論」欄に「世界各地を訪問していて日本の存在感が急速に薄れているのを実感する」と書いたが、「日本の国力が低下しているのではなく、日本の実力に見合った主張、メッセージが不足している現状を指摘したつもりだ」「21世紀は資源の争奪が激化する。日本が蓄積した高度の環境先端技術、省エネ技術は環境再生だけではなく、製造コストの面からも間違いなく世界標準となる」「蓄積された経験や知恵は人類共通の財産として共有される必要がある」「新聞記事を読むとしばしば『欧米に比べ遅れている』『理想に程遠い』と言った表現にあう。しかし、一つの国がすべてにおいて一番などということはありえないし、理想はあくまでも理想である。日本はもっと自らの力と可能性に自信を持っていい」と書いた。

 貧困についても「日本で言われている貧困は、相対的な貧しさであってインドやアフリカで日常的に出会う死と隣り合わせの絶対的な貧困とは貧しさの程度が違う」「良く言われるように悲観論者はコップ半分の水を前に『半分しかない』と嘆くが、日本は豊富な技術、恵まれた自然、治安の良さ、新しい時代に向けた知恵等、どれを取ってもコップいっぱいの夢と可能性を持つ国である。日本人は戦後、物質的豊かさを求めすぎたきらいがある。今こそ悲観論と決別し明るい日本を目指すべきである。それが精神的な豊かさに繋がり、世界に貢献する道でもある。
 迷走する政治を除けば、日本はそれに十分ふさわしい国である」というのだが、全く同感である。
 メディアの責任者は、たまには薄暗い?編集室を出て「下町で」明るく、それなりに生活をエンジョイしようとしている“庶民”の姿を見るが良い。
 なぜか雑誌「正論」の「私の写真館」に出ることになった私は、古いアルバムから過去の両親の記録と写真を眺めつつ、あの時代に比べて「100年に一度の不況」の今がなんと豊かなことか、と大いに力づけられている。
 あの時代の親たちの苦労に比べれば、今の不況は月とすっぽん、第一、人間様の食糧はスーパーに溢れているではないか!笹川氏が言うように、決して『死と隣り合わせ』の悲劇的状況ではない。
 しかも日本では、毎月3000万人分の食糧が「賞味期限切れ」で破棄されているばかりか、ペットショップにはペット達の食糧も溢れていて、中にはペット専用の「ケーキ」「自然水」「缶詰」類が山積みになっている。人間様は「悪食」でメタボ騒ぎ!なのに、なぜかペット専用食品は「脂肪や塩分なし」の健康食だから、苦しんでいる人間様はペット用の食事に切り替えてみたら?といいたくなる。
 日本のメディアは、大東亜戦争も「悲観的」で「自虐的」で、なぜかこの世は『暗い!』と書かなければ“進歩的文化人”ではなく、新聞も売れないかのように錯覚しているように見える。
 精神衛生上良くないから、この世は真っ暗!的な発想をする新聞は取らないことTVは見ないことに限る。


 ついでに笹川氏が言う「迷走する政治」に対してヒントになる意見を書いておこう。
「軍事研究」2月号の「市ヶ谷レーダーサイト」というコラムに北郷源太郎氏はこう書いている。
「・・・ついこの2ヶ月あまり前まで、財政再建構造改革一辺倒だったメディアの論調は、国際金融資本主義の破綻による世界恐慌を受けて、やれ景気対策だ、やれ規制緩和の見直しだと掌を返したように転換した。国民生活の安定とモノ作りの大切さが見直されたことは、虚構経済の欠陥や似非改革の欺瞞に気づくのが遅すぎたとはいえ、大いに結構なことだ」という一般的な論評はさておき、「防衛費を増やそうという議論が、なぜ今沸き起こらないのか、大いに不満である」と言うところに注目したい。
 そして「日ごろしゃしゃり出てくる国防族議員や保守派論客の先生方は、何故せっかくの慈雨を、自衛隊や防衛産業の強化に生かそうと努力しないのか。屁の突っ張りにもならないというのは、こういう時にこそ使う言葉だ」というのが面白い。
 しかし「国防族議員や保守派論客」が、如何に「似非議員、論客」だったか、今回の田母神事案で十分に証明されたではないか!その前の「守屋事件」や「山田洋行問題」で既に馬脚を現してはいたが、決定的だったのは田母神事案であった。彼らにとっては、国防や自衛隊というのは、単なる「集票マシーン」と「飯の種」だったのだといっても過言ではあるまい。そう考えれば「屁の突っ張りにもならない」というのは聊か「屁」に対して気の毒である。

「例えば今まで等閑になってきた弾火薬を大量発注すれば、自動車メーカーを解雇されて路頭に迷っている非正規労働者に、いくらかでも職を与えられるだろうに。次世代装備の研究開発費を倍増すれば、景気刺激に繋がるだけではなく、我国にとって有形・無形の安全保障資産となって戻ってくる筈なのだ。優秀な新人隊員を大量に確保するのも今である・・・と、限りがないのでこれについては機会を改める」と北郷氏は結んだが、まさに正論だと思う。

 私は今こそ「就職先なし」「内定取り消し」で人生を棒に振りかけている若者たちを、自衛隊に吸収して、しっかりした「教育」を施し、景気が浮揚したら希望に応じて「民間に戻す」手立ても一案ではないか?と思っていたが、聞くところによると、不景気なので現職自衛官が退職したがらず、新規採用予定者に「内定取り消し」を通知しているのだというから驚いた。まあ、国に誇りを持つ空幕長をたちどころに罷免し、届出もせずに反政府発言をしている防大校長を擁護する、そんな役所だから、北郷氏がいくら口をすっぱくして説いても、ごまめの歯軋り、全く通じる筈はない、と残念に思っている。
「軍事研究」と云う雑誌は、軍事の専門誌だから、あまり一般には目に触れないが、たまにはこの「黄色いページ」をめくって、この組織の内情を伺うのも面白いからご紹介まで。

軍事研究 2009年 02月号 [雑誌]

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