軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

核武装論に対する所見

核武装論について、コメントを求められたから、先日紹介した「月刊日本・9月号」の私の所見(一部補遺)をご参考までに掲載したい。

『安易な核武装論より国家戦略の構築こそ急務』

≪核防御論のない核武装論は滑稽だ≫
 ソ連崩壊後、米国は米・英・日のトライアングルで世界をコントロールしようと考えていた。小泉政権自衛隊イラクに派遣したが、それまでの政権は、いざという時には、憲法を盾にとって軍事的負担から逃げるので、米国は日本が足枷になってきていた。
米国にとって日本は頼りにならない同盟国であり、アーミテージ前国務副長官が「もっと存在感を出せ」といった理由がそこにあった。
 わが国は、英国と同じ海洋国家として、台湾・東シナ海朝鮮半島を視野に入れた軍事力整備を急ぐ必要がある。
‘72年の米中国交回復時、ニクソン毛沢東との間で、「日本に自主的な防衛力を持たせない」との密約があったといわれるが、日本は戦後半世紀以上、自主的防衛力どころか、国家戦略すら持たずに今日まで来た。これでは真の独立国とはいえない。
 今回の北朝鮮のミサイル発射は、まさに「天の警鐘」である。この北朝鮮のミサイル発射を機に、保守系論客の中に「日本も核武装すべきだ」との論調が見られるようになった。そこで私は敢えて「核武装に踏み切るのは良いが、その際、核攻撃からの防御をどう考えているのか」との問題を提起したい。
 毛沢東は「核を保有しなければ、米国に侮られる」と、核兵器を開発したが、同時に北京周辺に大地下壕を掘り、各種軍事施設は地上から姿を消した。勿論米国も巨大な核シェルターを整備している。核兵器保有するということは、同時に核攻撃からの防御のため、国家の中枢機能および軍事施設の地下要塞化が絶対不可欠なのだ。核戦略上当然のことなのだが、核兵器保有するには、この様に攻守両面からの準備が必要なのである。
数年前に私が視察した台湾の花蓮航空基地は、頑丈な岩盤をくりぬいた、NBC攻撃に耐えられる一大地下要塞になっている。核装備をしていなくとも、国家安全保障上、これが常識というものであろう。
 今回の北朝鮮のミサイル発射で、首相など関係主要閣僚が緊急安保会議を開催したが、これは本来地下要塞でやるべきものである。無防備な首相官邸では、ミサイル攻撃で一瞬にして破壊され、国家の中枢機能はズタズタにされてしまうだろう。
 現在行われている核武装論が滑稽なのは、こうした防御思想が皆無であることだ。こんな核武装論は、かってのガダルカナル戦と同様で、白兵戦の突撃思想でしかない。
 安易に核武装論を唱える者に「核兵器を陸海空自衛隊のどこに持たせるのか」を質問してみよう。すると、皆返事に詰まる筈だ。基本的には、脆弱性を避けるために海上自衛隊の潜水艦にSLBM(またはCM…核装備巡航ミサイル)を装備させるべきだが、原子力潜水艦保有していないわが海上自衛隊がSLBM(CM)など装備することなどナンセンスだ。
 しかも、核発射ボタンは3自衛隊の統率者である内閣総理大臣が持つことになるが、「その時」、冷静的確に判断して発射命令を下せる宰相が果たしているのか。こう考えてくると、わが国が核ミサイルを開発・保有しても、敵国からは「こけおどし」としか見られず、侮られること必至だ。

≪今求められる基本的な国家戦略の構築≫
 一部識者は「日本の技術力があれば、核兵器開発など一ヶ月もあれば出来る」と豪語する。確かに工学部の「オタク?」学生を集め、防衛産業の中核をなす重工業を動員すれば、作れはするだろう。しかし、スパイ防止法もない状態で、核拡散に手を貸すような事態が起きれば、世界の非難を一身に集めることは疑いない。また、仮に核兵器を持っても、直ちに自衛隊に配備できる筈がない。核を配備する前に、高度で十分な訓練が必要なことはいうまでもないし、その「要員選別」にも十分配慮する必要が生じる。
 まずわが国が核兵器開発を始める前になすべきことは、いかなる核戦略を構築するのかであり、これが最も重要な課題なのだ。外交評論家の岡崎久彦氏が言うように、日本の核戦略の基本は日米同盟と戦略的に両立するものでなければならない。米国の外交戦略に反対してきたドゴールのようなフランス型ではなく、英国型でなければ、実質的な意味がない。一部の核武装論者のように、「核武装して米国に対抗する」というのは支離滅裂な議論だ。核兵器開発を始めるには、こうした基本的な国家戦略を構築し、国民世論の指導と喚起を図ることが必要不可欠だ。仮に核武装に踏み切れば、核拡散防止条約から脱退することになるが、果たして脱退するだけの覚悟が日本国民と日本政府にあるのだろうか?勿論「唯一の核被爆国」などという情緒論は世界には通用しない。
私は核武装よりも、高度な精密兵器と長距離爆撃機保有して、「寄らばきるぞ!」の姿勢を持つことのほうが、核兵器保有して失う国際的な信用よりも、効果は大きいと考える。今議論されているのは、長期的な国家戦略に基づいた核武装論ではない。
核兵器保有国は「強い」のではなく、彼らは逆に「弱い」のだ。米国もソ連核兵器増強が怖かったからこそ、死に物狂いで冷戦という外交戦(SALTなど)を戦い、ソ連核兵器なしで崩壊させたのである。核兵器を持っている国は「強い」と同時に、実は非常に「弱い」のだ。金正日は今回ミサイルを発射したが、本心は怖くて仕方がないはずだ。
今回の北朝鮮のミサイル発射に対して、額賀防衛庁長官が「敵基地攻撃論」を示唆する発言をしたが、当然のことである。ところが、韓国などがこの発言に噛み付いたのは、彼らが「通常兵器」で武装された自衛隊の攻撃でさえも怖いと感じているからに他ならない。
昭和31年、鳩山内閣のとき、船田防衛庁長官は「急迫不正の侵害が行われ、誘導弾などによる攻撃が行われた場合、他に手段がないと認められる限り、誘導弾などの基地を叩くことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能である」旨答弁している。問題はその「叩く手段」を整備してこなかったことにある。
今わが国に必要なのは、こうした国家の基本的姿勢を確立する徹底した議論なのだ。核武装しなくても、わが国を守る手段はいくらでもあるのだ。