軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

特攻隊員だった板津先輩逝く

今朝は朝からみぞれが降っていて、なんとなく憂鬱な感じがしたが、朝刊を広げてみて板津先輩が亡くなったことを知った。
きっと、先に逝った戦友たちと、靖国神社の一の鳥居前で再会して感涙にむせんでおられたのであろう、と思った。


≪特攻隊の生き残り、板津忠正さん死去 知覧特攻平和会館の初代事務局長


≪自宅で特攻隊について話す板津忠正氏=昨年3月(産経から)≫
 旧日本軍特攻隊員の生き残りで、知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)の初代事務局長(館長職)を務めた板津忠正(いたつ・ただまさ)氏が、6日午後0時41分、慢性心不全のため愛知県犬山市の病院で死去した。90歳。名古屋市出身。葬儀・告別式は9日午後1時から犬山市の犬山愛昇殿で。喪主は長男、昌利(まさとし)氏。

 昭和20年5月、沖縄に向け出撃したが、エンジン不調で不時着した。戦後は特攻隊員の遺影や遺品を集めて回り、61〜63年に知覧特攻平和会館の事務局長に就任。特攻と平和について講演活動を続けた。≫


私は、板津氏と昨年8月15日に、BSフジプライムニュース番組でご一緒した。小柄ながら温顔で「特攻は命令でもなく、自ら志願したのです」というと、スタジオの“現代っ子”たちは≪信じられない!≫という顔をした。
「特攻隊員たちは極悪非道な軍国主義の犠牲者だ!」と思い込まされてきた今時の若者たちの素直?な表情が見て取れた。
その根源については、発売中の月刊「正論」が暴いている。いかに連合国軍(主として米国)は、鬼神をも泣かしめる日本軍兵士らの勇戦奮闘ぶりを恐怖に感じていたかがわかろうというものだが、両陛下がご巡幸あそばすパラオ、ペリュリューもそうであった。


ある講演会で「先生!特攻隊員たちはみんな“お母さ〜ん”と叫んで突っこんだそうですね」と聞いてきた女性がいた。
「誰に聞きました」と問うと「学校の先生です」と言う。そこで「その先生はそれを誰から聞いたのでしょうか?旧軍の飛行機には“ヴォイスレコーダー”もありませんから、特攻隊員たちの最後の声は残っていないはずでしょう?」というと、「あ、そうか。変ですね」と言ったものだ。


ことほど左様に今までの一部?の日本人、特にメディアは戦死者の口が開かないことをいいことに(朝日による“従軍”慰安婦問題もそうだが)、うそで固めて「軍国主義?」とやらを非難し、占領軍に阿って英霊を貶めて平気だった。
しかしフジTVのスタジオでは、キャスターらが問い詰めれば問い詰めるだけ板津氏は冷静沈着に当時の事実を語ったから、いかに戦後教育で子供たちが毒されているかが証明された。
その時の様子は次のオンデマンドに収録されている。しかし、フジTV局は最後まで紳士的で、出演者一同が板津氏を玄関まで見送って最敬礼していた。
中には、お笑い芸人には最敬礼する癖に、一般出演者に対しては傲慢不遜に対応するTV局もあり、いかにも「テレビに出してやっているのだぞ!」といわんばかりの上から目線の傲慢さだから、その局のレベルがよくわかるが、昨年の8月15日には板津先輩も笑顔でタクシーに乗車された。あの時固く握手した時の笑顔が見納めだった。
http://www.bsfuji.tv/primenews/text/txt140815.html


その後地上波の別の局で、戦後迷惑を「かけっぱなし」だった奥様とのやり取りが放映されたが、その仲睦まじいお二人の姿に涙を禁じ得なかったことを覚えている。
確か年末の番組だったが、いつも一人っきりだった夫人の願いは、夫婦揃って歌舞伎を見に行くことだった。そこで板津氏がサプライズ!1月6日の歌舞伎座の入場券を夫人にプレゼントしたのである。
「6日ですって!私の誕生日に!嬉しいわ」といって夫人が板津氏の手をぐっと握りしめ、板津氏も目頭をぬぐっているところで話は終わったが、我が家でも家族みんなが涙を流して感動していた。やっと夫人の苦労が実を結んだと・・・・


ところがその後、音信がなかったのだが、今年の2月22日にご長女から届いたハガキを読んで愕然とした。「父は1月5日に突然倒れて入院中でございます」とあったのである。
何ということか、あれほどご夫人が楽しみにしていた歌舞伎見物の前日ではないか!
静岡にお住まいになるご長女は努めて看護に出向かれていたようだが、ご高齢の夫人の看病生活は大変だったろうと思う。


昨年8月15日のフジテレビのスタジオで、私は次のことを自覚させられた。
戦没された英霊方は、靖国神社に祭られて喜んでおられるのだ、とばかり思っていたが、実は「靖国で会おう!先に行っているぞ!」と笑顔で言い交して戦場に散った英霊の中には、仲間とそれぞれ約束があったのだ、ということを。
まだ御神殿には入っていない英霊方もいるのだということを。
そして境内の各所で仲間を待ち続けておられる英霊方もおられるのだということを。
留まっておられるのは桜の小枝かもしれない、花びらの一枚なのかもしれない…。
それを一番御心にとめておられるのが天皇陛下であり、それを輔弼すべき股肱の臣たるべき議員どもは、色情因縁にまみれ、低レベルの騒ぎにうつつを抜かして税金を食い物にしている。彼らこそ君側の奸というべきではないか?


板津氏は出撃時に12名の戦友と、靖国神社の「一の鳥居前」に集合し、「全員そろって神殿に入るぞ!」と約束していたと言った。
しかし板津氏と他の2名は突入出来ずに生き残り、板津氏は不時着した徳之島から小舟を乗り継いで本土にたどり着き、再び知覧に戻って上司に直ちに出撃したいと上申したがついに終戦となって生き残ってしまった!。
「仲間たちはまだ一の鳥居の前で待っているに違いない」と涙を浮かべられ、私に「戦死できなかった私は仲間と共に靖国神社に入ることはできません」と言った。
これが当時の若き戦士たちの本心であり、「お母さん」と叫んだと言い張るのは臆病な現代の“大人たち”による創作であり英霊侮辱なのである。

昨夜来、靖国神社の一の鳥居前で、念願だった9名の戦友と再会した板津氏は再び別れて今頃は犬山の自宅の奥様の元に戻られたに違いない。
今夜は通夜、葬儀と告別式は明日9日の午後である。

生き残った一生を、先に逝った特攻隊の仲間たちのために捧げられた、板津氏のご冥福をお祈りするとともに、ご夫人のご健康をお祈りしたい。合掌


≪知覧を出撃する特攻隊員たち≫


靖国神社一の鳥居=インターネットから≫