軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

サハリン(樺太)を我が統治下に!

今朝の産経新聞は「日本のエネルギー供給源として期待されるロシア・サハリン沖の原油天然ガス事業が,鯨問題で思わぬハプニングに直面している」と報じた.鯨の繁殖地を迂回するためコストが増すという.日本からは三井物産三菱商事が出資しているそうだが,追加負担が4500億円以上になるという.高い買い物にならねば良いが…と心配になる.
私は昭和14年8月に樺太豊原市(現在のユジノサハリンスク)で生まれた.父が樺太庁逓信課に勤めていたからである.昭和15年に,極寒の地樺太を離れて,九州に移動したため父はシベリア送りを免れたのだと思う.生まれた土地を全く知らなかった私は,4年前に機会を得てサハリンを訪ねた.いわば60年ぶりのセンチメンタルジャーニーであった.
羽田から函館に飛び,函館からはサハリン航空ターボプロップ機・An24で約2時間,ユジノサハリンスクに着く.この時は到着後マイクロバスで一気に北上し,旧敷香に一泊,翌日早朝から北緯50度の旧国境まで進出した.国境線にはソ連軍が南下した地点として記念碑が立っていた。頑強に抵抗した我が軍であったが,8月15日に『停戦命令』が出された以降の戦いは,樺太南部全域で悲劇的な戦いとなったことはよく知られている.停戦すべく交渉のため軍使を派遣しても,ソ連軍は軍使一行を銃殺し攻撃を止めず,真岡等では住民が悲惨な目にあっているのを見て、第88師団の数個大隊は、師団の停戦命令を無視して戦闘を継続した.豊原の,樺太庁で停戦交渉が行われたのは,8月27日であり,その後ソ連軍は北方領土まで侵攻した.米軍が北方領土を占領している,と思っていたソ連軍は,米軍が不在である事が分かると,直ちに侵略したのである.
思い出すのも腹が立つが,サハリンの現状は,全くと言って良いほど『進歩』しておらず,父が残してくれた詳細な日記に張られている当時の写真や絵葉書の方が,相当文化的な施設が整備されていて,日本人が懸命に開発に励んでいた事がはっきりと証明されている.
事実,首都のユジノサハリンスクを一歩郊外に出ると,そこはまさに『スラム』の連続であった.7時間以上もかけて北上する『幹線道路』は殆ど未舗装で,あちらこちらに事故で大破した車の残骸が,まるでサハリ砂漠に点在する動物たちの死骸のように転がっている.
旧敷香市街も陰鬱な廃墟のような姿であった.旅行社から「トイレットペーパー持参の事」と言われ,耳を疑ったのだが,ホテルがない町だとかで,旧王子製紙の工場内の社員寮に雑魚寝した.
北緯50度線までの進出も,まるで荒涼たる原野風景であったが,そんな藪の中で,まるで名画『ミレーの落穂拾い』を想像させるように,ぼろを纏った母娘が薪を拾っている.老婆が,バケツを持って道端にたたずんでいて,悪路を通過する石炭運搬トラックからこぼれる石炭を拾っているのである.これがあの米国と覇を競った超大国の真実の姿であった.
帰路,小休止のため立ち寄った村の道端で、女達が茹でたタラバガニを売っていた.一匹500円であったが、彼女達の姿は実に哀れであった.彼女達をここからいきなり『銀座』に連れていったら,どんな反応をするどうするだろう?などと不埒な考えがよぎったが,その中に戦闘服を着た日本語が達者な男がいて,『なぜ自衛隊は攻めてきてくれなかったのですか?』と言ったという.
私は,あまりにも不潔な便所を見て気分が悪くなり,同行者唯一の御婦人と早めにバスに乗っていたから,直接彼の言葉は聞いていないが,尋ねられた青年が私に報告してくれたのである.つまり,自衛隊が『進攻』してきたら,適度に抵抗を示して後退し、沿海州から援軍が来る前に自衛隊に降伏する.そして日本領になった方が余程幸せである,というのである.
現代日本人の感覚からすれば,全く想像できない考えだが,私はある意味でスターリンから棄民としてこの地に追い出された,ロシア人達の本音ではないか?と思っている.

それから2年後の平成15年秋,再びサハリンを訪問した.この時は南部の真岡,豊原,大泊を巡る慰霊の旅であったが,2年前よりも若干品物が豊富になっていた.それは天然ガス事業のパイプライン工事が最南端の港湾である大泊まで進捗していたからだと思われた.工事にかかわる?アメリカ人村も建設されていて,2年前には想像も出来なかった『サービス精神?』もかなり旺盛になってきていた.徐々に『民主化』が浸透しているのである.その成果はホテルの対応,催し物などのサービス,挨拶などに表れていたが2年前にも敷香唯一というレストランでは,強烈なビートの効いた『アメリカ現代音楽』に,ロシア人たちが「しびれて」いて,ツイストに踊り狂っていたから,なんの事はない,アメリカは『文化』でソ連を征服していたのである.
二度目の時も,我々が泊まった駅前のホテルのレストランは,毎夜毎夜うるさいほどボリュームを上げてロシア人たちが踊り狂っていた.2度目の時の案内人は、残留韓国人で、私と同じく昭和15年2月豊原生まれの御婦人であったから,日本語、韓国語,ロシア語が達者で,樺太の実情が実に良く理解できた.
彼女は言った.「日本はアメリカについて行ったから幸せになって良かったね。共産国に占領された国は惨めよ」「北方領土は日本固有の領土である事は皆知っている.1960年代に,この島に送り込まれたロシア人が,石器時代のような惨めな生活に苦しんで『日本に返還すべきだ』と議会で決議した事があった.ところがどうした事か日本はそれを知って物資を援助した.そこでこの返還話は立ち消えになったが,日本は何を考えているんだろう,と言う話になった」「アジア人は良く働くがロシア人は働かない.今は中国人が大量に渡ってきて,百姓をしている.彼らは良く働く。今に中国人だらけになるよ」と言った.仲間が「日本は中国人犯罪で困っている.樺太も犯罪が増えたのでは?」と聞くと,彼女は「ロシア人の方が凶悪だから,中国人は何も出来ないよ.日本の男はだらしなくなったね」と言ったので,一同無言!であった.
樺太韓国人協会を訪問した時,同行者の中の青年が「皆さんも強制連行されたのですか?」と聞いた.「強制連行」の意味がわからなかった代表は,ガイドの婦人から解説を受けて「徴用でした」と答えたのだが,今度は日本人のほうが「徴用」の意味が分からなかった.
ガイドの婦人は「私の父は一旗組,炭坑労働者だったが,給料は郷里の10倍以上だったろう.ソ連軍が来てからは極貧生活になったが…」
父の日記にも,公務員の給料は,内地の1・8倍であったと書いてある.開拓に託した当時の日本政府の意気込みが感じられるが,満州も,半島も,台湾も,日本統治下であったところには共通していたのではなかったのか?あのまま,樺太も日本統治下であったならば,18世紀時代のロシア人母娘や,道端に立ち尽くす老婆のような住民はいなかったに違いない.スターリンは日本人が営々と築き上げた樺太文化施設を破壊したばかりでなく,社会の進歩を60年間停止させただけであった.しかも,国際法違反,人道に対する罪を平然と強行した結果がこうなのだから,移住させられたロシア人は恨んでいることだろう.
サハリンの天然ガス事業は,今後どの様に展開するのか分からないが,恐るべき荒廃の地・サハリンで、哀れな棄民たちが些かでも人間としての最低限の『権利』を手にするきっかけとなれば良いのだが,人間性を無視されつづけてきた彼らが,現在の日本人の生活レベルに到達するのは,並大抵の事業ではないような気がする.
いっそ,我国が「実力」で取り返して日本統治下に戻した方が,住民達も喜ぶのではないか?と思ったりする.来月仲間達が三度目のサハリン訪問をする.私は、私の講演会が平河総研で計画されているので今回は参加できないが,帰国した仲間から話しを聞くのを楽しみにしている.



ここをクリック!!
「人気blogランキング」にご協力を!!
↓↓↓
【人気blogランキング】