軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

日本軍降伏式の偽物絵画

シナは、9月に対日歴史戦を開始するそうだが、前回御約束していた中共の対日宣伝のごまかしの一例を書いておこう。

次の巨大な絵画は、中国歴史博物館に掲げられている「日本軍投降儀式」を描いたものだという。


≪中国歴史博物館の中には、こんな巨大な油絵がありますが、あなたはどう思いますか?この油絵は歴史を偽造したもので、降伏儀式会場には各国の記者がいたのに平気でこんな偽物を作る…というキャプションつきである。=インターネットから≫


≪この絵画の主要部分≫


≪主要部分を拡大してみると、国民党の何応欽の後ろに座っている人物はまるで周恩来と、そばにいるのは20歳ころの毛沢東ですか?(書き込みから)=インターネットから≫


≪更にこの絵はなんですか?背広姿の日本軍人の後ろに、一人だけで立っている八路軍の軍人は、新4軍ですか?
この当時の主役は国民党軍であって、いかにも主役は「八路軍だった」と偽物を作るのに大変のようだ…(書き込みから)=インターネットから≫

書き込みには「1945年の調印式に出席したのは“国民党政府”です。中華人民共和国は1949年10月1日に成立したのでしょう?」とあるから、人民の中には歴史を鏡にしているものが増えているという証明か? 良いことだ!


いい機会だから、当時の記録を参考までに掲げておこう。
中国人民解放軍南京軍区お抱えの有名な画家、陳堅氏が16年もかけて制作した“名画”だそうだから、絵心がある私には同情するしかないが、文化人たる画家は軍に利用されて歴史を偽造してはいけない!それはもはや芸術とは言えないからだ。


これが真相だから、よく当時の時代を学んでほしい。

支那派遣軍の停戦と降伏=中国軍人がみせた東洋道義
岡村支那派遣軍総司令官の発した「戦闘行為即時停止」の命令で、中国各地の各日本軍は一切の戦闘を停止した。停戦交渉のために早くも八月十五日の午後、南京の日本軍総司令部に国民党軍軍使が現れた。岡村総司令官の代理を直ちに派遣して命令を受領せよとの伝達である。
 軍使には支那派遣軍総参謀副長今井武夫(士30)が適任として命ぜられ、二十日出発した。場所は漢口の西南の花江である。会談の模様は『支那事変の回想』(今井武夫著)に
詳しく記されているが、中国側(注:国民党軍)のとつた態度は実に紳士的だった。

≪停戦会議に臨む日本軍軍使。署名するのは今井少将≫


 代表の今井少将、随員の橋島芳雄中佐(支那派遣軍参謀・士43)や、前川国雄少佐(第十三飛行師団参謀・士45)も帯刀を許され参謀肩章もつけているのが写真でも分かる。
 中国側代表蕭毅粛中将(中国陸軍総部参謀長)と冷欣中将(同副参謀長)らは、日本側に威圧的な感じを与えないよう種々配慮をしている。例えば、交渉のテーブルも円卓を用意していたが、米軍からの横槍で俄に長方形の机による対面式に替えられた。中国側は東洋道義に対する米人の無理解を慎慨したという。また今井らを宿舎に案内し接待した二人の少佐は、後日会った時にはそれぞれ少将と大佐とわかったが、この時はわざわざ配慮して下級の階級を着けていたものと知り、今井はいたく感銘したと書いている。


支那派遣軍の停戦と降伏・中国軍が南京と上海へ入城
蕭毅粛中国陸軍参謀長と、今井武夫派遣軍総参謀副長との事前協議が円滑に行われ、八月二十七日には、冷欣副参謀長がまず南京に到着し、国民政府前進指揮部を開設した。実に八年ぶりの事であった。
 九月八日になると、総司令官何応欽上将(日本陸士出身22期相当)が戦闘機に護衛されて南京故宮飛行場に着陸、晴れの首都入城を果たした。
 次の日、九月九日午前九時(中国側が三九良晨として選んだ)、かつて国防部のあった場所で降伏調印式が行われた。支那派遣軍総司令官岡村寧次大将(士16)は幕僚を従え、定刻式場に入った。二箇分隊武装した護衛兵は、何応欽の配慮で日本側が出したものである。式場内は中米英ソ四国の国旗や国父孫文の写真などで飾られていたが、何上将は前日に下検分して、勝利をうたう赤白藍の貼り紙が一面に飾られていたのを「敗者を鞭打つもの」と、取り除かせている。
 岡村大将が降伏に関する権限を証明する書類を提出したのち、何上将から小林浅三郎(士24)総参謀長に手渡された降伏文書に岡村が毛筆で署名調印して何上将に返戻、うち一部が岡村に手交されて降伏儀式は無事に終了した

≪降伏調印式場と捺印する岡村大将。それを小林総参謀長が国民党軍代表の何応欽上将(左)に手渡す≫

 この日をさかのぼる九月六日、上海に先遣されていた中国第三方面軍の幕僚から、総司令湯恩伯の命令として上海の日本軍第十三軍司令官松井太久郎中将(士22)に次のような
ことが伝えられた。
 「来る八日、湯総司今は上海に到着して市中行進を行うから、日本陸軍より二箇分隊の警備隊を派遣し、湯司令の直接護衛に任ぜさせよ」とのことであった。
 驚いた松井が真偽を確かめたところ、その返事は「日本軍は小官の入城に当たって警備の任についてこそ最後を飾るというものである。小官は日本軍を軽蔑もしなければ恐れもしない。日本敗れたりと雖も中日の提携こそ大切で、日本軍に守られて入城することは中日両国の真の姿を具現するものではないか」というものだったという。
 こうして翌日の湯恩伯の上海入城は日本軍二箇分隊武装警備隊に守られて堂々と行われた。降伏した側の将兵に守られてである。その二箇分隊は、見習士官を長とし、幹部候補生のみの編成で、新品の軽機・小銃で武装し、鉄帽から下着に至る服装もすべて新品を支給して参加している。〈横出銕三 『膠斌工作成ラズ』及び『日本の友・湯恩伯将軍』
市川次郎(士42・第十三軍参謀)より〉
 何応欽といい湯恩伯といい東洋道義をわきまえ、敗者に対する思いやりの気持ちをもっていた。当時の蒋介石輩下の人々に、心から敬意を表するものである。


支那派遣軍の停戦と降伏・後世に遺す三つの歴史教訓 
それとともに想い起こすことが三点ある。
 その一つは南京陥落時のことである。南京が陥落する時(昭和十二年十二月)中国側の指導者は、松井石根司令官の呼び掛けに応えて何故停戦交渉に応じなかったのか、残念でならない。当時の指導者、蒋介石も何応欽もいち早く逃亡(七日)、唐生智防衛司令官も陥落の前夜(十二日)部下を置き去りにして逃げてしまった。それが南京に混乱をもたらした。蒋総統らが降伏を拒否して徹底抗戦を誓うなら、せめて防衛司令官に「南京解放都市宣言」を行わせ、停戦交渉に応ずるよう命令しておくべきではなかったか。

≪日本軍降伏文書を冷欣副参謀長から受け取る蒋介石総統。人生絶頂の瞬間だったのでは?≫


 二つ目は終戦ソ連のとった態度である。
 昭和二十年八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾したことを「玉音放送」によって内外に宣明した。諸外国はそれ以来終戦処理に取り組んだのだが、ソ連スターリンは「戦争継続」を命令して攻撃を続けた。我が軍は各地で白旗を掲げて停戦のための軍使を派遣した。それに対し樺太ソ連軍は二度までも軍使を射殺してしまった。
ソ連軍は、日本がミズーリ艦上で降伏文書に署名した九月二日まで攻撃を続け、歯舞群島はそれ以後占領した。これがソ連への不信感を植えつけ、日本に大きな悲劇をもたらした。ソ連はこれらをどう考えているのか、率直に反省すべきであろう。
 三つ目は今の日中関係のことである。
 現在の日中間には、終戦時の国民政府軍と日本軍との間に交わされたような、相互理解に基づく道義心が殆ど見られない。東洋道義と武士道とを互いに認め合った関係を取り戻したいものである。
(世界に開かれた昭和の戦争記念館・第2巻「大東亜戦争と被占領時代」名越二荒之助編:展転社刊から)


いずれにせよ、歴史は勝者が作るもの…、それにしても姑息すぎはしないか?

改めて言っておくが、大陸の主要部を占領していた岡村大将隷下の100万の日本軍は、日本政府がポツダム宣言を受諾し、天皇の命令によって矛を収めたのだ。
ついでに言っておこう。当時≪南京大虐殺≫が起きていたならば、各国から集合していた代表者はじめメディアにその凄惨な現場を見せたら、よかったのに。見せなかったのは、そんな現場がなかったからだ。
ウソも休み休み言ってほしいが、せめてもっと旨く誤魔化してみたらどうだ?

世界に開かれた昭和の戦争記念館〈第2巻〉大東亜戦争と被占領時代

世界に開かれた昭和の戦争記念館〈第2巻〉大東亜戦争と被占領時代

世界に開かれた昭和の戦争記念館〈第4巻〉大東亜戦争その後 (歴史パノラマ写真館)

世界に開かれた昭和の戦争記念館〈第4巻〉大東亜戦争その後 (歴史パノラマ写真館)

大東亞戦争は昭和50年4月30日に終結した

大東亞戦争は昭和50年4月30日に終結した