軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

中共空軍創設秘話 その1

反響が大きかったので、林飛行中隊の秘話を書いておこう。参考文献は散逸していて、纏まったものが少ない。そこで私の後輩で、新治毅元防大教授が航空自衛隊の部内誌に発表した文献を抜粋引用しつつご紹介することにしたい。
新治教授は、1997年5月に防衛研修ツアーで北京を訪問した際、「私は中国空軍OBの姚峻(ようしゅん)と申します。私は日本陸軍の林弥一郎少佐に九九式高等練習機による操縦教育を受けました。林飛行隊の皆さんは中国になかった空軍を親身になって産み育てられ、その行き届いた教育と薫陶に今でも感謝しています」と挨拶した老紳士が、元中共空軍副参謀長の退役中将であったことから興味を持って調べたという。
「林飛行隊の隊員達は帰国後も多くを語ろうとしなかったため、我国ではこれまで余り知られていなかった。しかしながら林飛行隊がどのようにして中国空軍建設に貢献したかについては、中国側の新聞に『中国空軍の友=林弥一郎先生』と題して詳しく連載報道されていたのである。以下は、この記事の日本語訳『中国空軍の友=林弥一郎先生とその同志達』という日中友好会九州支部編集部発行の小冊子を他の資料によって若干の補足を加えながら抜粋要約して紹介する」と彼は書いているが、私も旧軍の先輩から「彼は共産軍に協力した、と言うことを気にしていて、殆ど語らなかった」と聞いていた。おそらく同期生などからも快く思われなかったところもあったのだろう。帰国後も一切の会合に姿を見せなかったという。しかし、最近(と言っても私の退官直後のことだが)一部に真相を語り始め、それを聞いた陸士の先輩から概要を聞いたことがある。終戦直後のドサクサ、特に「停戦命令を受けてやむなく敵軍に降伏せざるを得なかった」苦悩を知るとき、林部隊長の決断は正しかったと私は感銘を受けたのであったが、実際に戦場で合まみえた「敵軍」に協力したことを快く思わない戦友がいたとしても、やむを得なかったであろう。

(1) 創設に協力した経緯
1945年8月15日、我国が降伏を受諾した後、大陸では国共内戦が勃発する。
ご承知のように、国民党軍(蒋介石軍)は米国などから多大の軍事援助を受けていたし、支那事変以前から欧米諸国から各種軍用機を購入し、有名なシェンノートなどによって指導を受けていたが、対する共産軍(毛沢東軍)はいわば農民軍だったため、海・空軍戦力は皆無であった。1945年9月2日、我国はミズーリ号上で正式に降伏文書に調印したが、大陸においては、9月9日に支那派遣軍総司令官・岡村寧次大将が、中国陸軍総司令・何応欽上将に対し降伏文書に調印して戦闘は終結した。私が言う、勝っていた軍隊が天皇の命によって「負けていた軍隊」に降伏したのである。
この頃林少佐率いる第2航空軍第101教育飛行団第4練成飛行隊(一式戦隼を使用)は、遼寧省東部に位置していたが、大部分の第一線部隊と同様瀋陽(奉天)で9月末に降伏を受理した。間もなく林彪、彭真、伍修權の3名は林飛行隊長を接見して、空軍力皆無の人民解放軍の航空部隊創設のために航空学校を創設する事業を援助するように依頼した。伍修權参謀長はこのとき、長征以来ずっと身に着けていたブローニング拳銃を林少佐に記念として贈呈し、出来るだけ大勢の人間を連れてくるように要請したという。
林少佐はその事情を「私は8月15日の陛下の御言葉を聞いて、もう自分は部下に命令する権限は無いと思い定めた。したがって要請に即答せず、部下の意見を聞いて多数決で決定することにした。多くの部下達はおそらく日本に帰りたいというだろうと思ったが、これから未だ飛べるなら残ると言うのが大多数の意見であった」と語っている。パイロット気質とはそういうものである。しかも大東亜戦争直後のあの頃、林少佐は「多数決」で決定したというから、我国には「民主主義」が育っていたのであって、戦後米国から教えられたことではないことを証明している。しかも部下全員が林少佐に従ったというのだから、彼の人徳をも物語っている。
創設期の中共空軍は、国民党軍の攻撃を避けるため、吉林省通化から牡丹江に、更に黒龍江省の東安にと転々と移動する。練習機は日本軍の九九式高等練習機であったが、各地から部品を集めて漸く飛べるようにした、風防ガラスが無い、座席のベルトが無い継ぎはぎだらけの飛行機であったが、林飛行隊の技術者達は、日本機のみならずアメリカのP-51戦闘機も練習機に改造した。日本人の操縦教官と中共軍の学生パイロット達は、互いに命がけでこのような継ぎはぎだらけの機体で訓練したのである。
「東北人民解放軍航空学校」は、1949年5月に「中国人民解放軍航空学校」となった。この「航空学校」の卒業生が、今日の中国空軍、航空工業及び民間航空を支えており、人々は「東北人民解放軍航空学校」を、中国空軍と航空事業の揺籃として「東北老航校」と呼んでいるという。「老」はベテラン、年長を意味し、古い組織への尊称・愛称である。
その後、林弥一郎少佐は、東北地区航空委員会委員、航空総隊副総隊長、航空学校参謀兼飛行主任教官等を歴任して、1956年8月に帰国した。

(2) 林少佐の戦歴
林弥一郎は1911年大阪市南河内郡藤井寺町の一農家に生まれ、旧制中学卒業後、1932年に航空第1連隊に入隊、下士官試験に合格した。その後航空学校で飛行技術を習い、熊谷飛行学校と航空士官学校で飛行教官を務めた。1941年11月、30歳のときに飛行第54戦隊の中尉で中隊長として中国に派遣された。最初は武漢の航空作戦に参加、後に広東、広西一帯の航空任務に就いた。
1942年6月、桂林上空で米空軍P-40戦闘機編隊との空中戦で旧式な九七式戦闘機で戦い、機体に34個の銃弾を受け、エンストを起こしながら中隊を指揮し、中隊全体で5機を撃墜する戦果を上げた。林少佐は後に「我を忘れて戦い、九死に一生を得た」と語っているが、この傷だらけの機体で奇跡的に広州白雲飛行場に無事帰還したのである。
2年後少佐に昇進し、前述した関東軍第2航空軍所属の第4練成飛行隊長になった。部隊は北満の佳木斯(ちゃむす)に駐屯し、戦闘技術を習得した戦闘機パイロットを対象に、彼らを隼戦闘機に乗せて更に高度の戦闘機訓練を実施すると同時に、対ソ防空任務も帯びていた。装備は「隼」約60機を含む70数機で、中国大陸内の基地を前進基地とする米空軍の重爆撃機B-29による日本本土爆撃が始まると、林飛行隊にB-29の中国上空における迎撃任務(ハ号作戦)が課せられた。
当初は、北満から南満州へと迎撃作戦を展開していてが、遠距離に加えて超高高度の作戦による機体の消耗が激しいことなどから、1944年11月頃には基地を瀋陽(奉天)の2つの飛行場に移して、瀋陽の防空任務にも着いていた。終戦直前のソ連の参戦により、瀋陽を避けて部隊を奉集堡(ふぁんちいぱお)飛行場へ移動させたがそこで終戦を迎えた。
その頃の林飛行隊の人員は、3百数十人に膨れ上がっていたというが、林少佐は、戦いには勇猛果敢、人柄は正義感が強く穏健、部下思いで多くの兵士達から慕われていたと言う。

次回は、終戦直後の林飛行隊の状況を書くことにする。