軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

中共空軍創設秘話 その4

1、 中共空軍の人材巣立つ
 1949年10月1日、蒋介石の国民党との内戦に中国共産党毛沢東が勝利して、中華人民共和国が成立した。この日、北京の天安門広場毛沢東は閲兵式を行ったが、国民党に反対して八路軍に参加した劉善本師長は、隊長機に乗って飛行編隊群を指揮して天安門上空を飛び毛沢東の検閲を受けた。この飛行により中国の人民空軍部隊の存在を世界に示したのであった。
 瀋陽でも、この日同様な式典が行われたが、林少佐も隼戦闘機に乗り、他の日本人教官は九九式高等練習機を操縦して検閲を受けた。この時林少佐はまるで「ブルーインパルス」のように多くの曲技飛行を披露している。又、牡丹江の航空学校では、所有する100機以上の飛行機が地上に並べられた。国民党軍から捕獲した米空軍のP-51戦闘機や、AT-6、セスナ機なども並べられたが、まるで旧日本軍の飛行機が勢ぞろいした格好であったというから、なんとも奇妙な風景?であったろう。
林少佐が参加し、1946年3月に創設された「東北民主連軍学校」は、1949年10月に中華人民共和国が成立したときには3年半を経過していたが、約160名を養成、後で14名の女性操縦士も養成されたという。これらの学生達は空軍創設のため、或いは増設された航空学校の教官として、さらには朝鮮戦争の発生とともに実戦部隊の指揮官として活躍したのであるが、そこで英雄的な活躍をした張積慧,鄒炎などは林少佐が最初に教育した「甲班」「乙班」35人中の一人であったという。又、同時に多くの整備士をも養成した。
「『中国空軍の友=林弥一郎先生とその同志たち』は以上で終わっている」と新治教授は書いているが、その後の経過を教授が集めた資料から更に発展させているのでそれもご紹介しておこう。

2、 中国人民空軍へのバトンタッチ
 1949年10月1日の新中国建国と同時に、東北航空学校にも大きな変化が生じてくる。その第一は、空軍の創設と航空学校の増設に伴う編成替えである。建国後間もなく国内に新に6個航空学校が設置され、東北航空学校は「中国人民解放軍第7航空学校」と改められた。この航空学校増設の背景には、新中国とソ連との友好関係の確立があった。
新中国が成立すると、ソ連はいち早く中国を承認、中国に対して全面的な援助を開始し、戦闘機、爆撃機、輸送機、燃料など空軍創設に必要な援助を惜しみなく与えた。又同時に、教官・技術者を派遣するとともに、訓練生の受け入れも拡大した。既に1948年ごろから、ソ連人教官・技術者が中国へ来て、例えば長春飛行場では、中国人、日本人、ソ連人の三者による共同活動が行われていたという。新設された航空学校では、ソ連人教官による、ソ連製練習機での飛行訓練が開始されたが、東北航空学校の卒業生も教官として派遣されていく。その学生達は、ソ連人教官の指導下に入り、ソ連製の最新式戦闘機に乗るようになったが、それを堂々と乗りこなし、そつなく教程を消化していったのである。
この状況は、丁度新生ロシアから新鋭機・SU-27/30を導入しつつある現状と瓜二つに見える。当時ソ連が大々的に新生中国を支援したのは、第2次世界大戦後の世界支配を目論むコミンテルン大戦略の一環であった。
こうして東北飛行学校の林部隊の任務は、新生中国が成立して航空学校が増設され、空軍が創設されたことで基本的に終了し、中国人民空軍にバトンタッチされたのである。
「林少佐が林彪などに協力を約束して4年間、更に日本人スタッフの大半が帰国する1953年までの3年余、異国での敗戦・動乱の中で死亡者は数人に過ぎない。多数の軍人集団が、自由意志の下にまとまって行動して所期の目的を達成したケースはまれであった」と新治教授は書いているが、林少佐の下に一致団結して行動し、新生中国空軍創設の約束を果たした、律儀な旧帝国陸軍軍人達の姿が髣髴としている。その反面、帰国した彼らを待っていたものは、第2次世界大戦終結後に生じた自由主義諸国と共産主義諸国との対立、いわゆる東西冷戦下において、新生中国とは水と油の関係に位置する自由主義国の日本であったから、帰国後の彼らの立場には微妙なものがあったに違いない。

プロローグ
新治教授は本稿の最後に、その後の中国空軍の発達状況について、概括的なまとめを書き加えているが、私が中国空軍を評価するときの判断基準にしている事項を書いているので紹介しておきたい。
中国人民解放軍は、1949年11月11日、北京に中国空軍司令部を発足させ、1950年末までに6個の軍区空軍本部組織が設立した。1950年10月には、2個高射砲大隊、16高射砲連隊、一個サーチライト連隊、2個レーダー大隊と一個航空機監視大隊からなる人民解放軍防空司令部が設立された。しかし、空軍創設の当時から空軍を陸軍から独立した軍にしようとする配慮はなく、人民解放軍の首脳部は、空軍が自主権を持つことを望んでいなかった」という部分である。
その上、創立に深く関わった林飛行隊も、帝国陸軍飛行部隊であったから当時の日本陸軍の「主力」ではなく、「補助兵力」に位置づけられていた。実態は世界に先駆けて「空軍戦力化」されていた帝国海軍でさえも、海軍部内においては「補助兵力」的に扱われていて、依然として「大艦巨砲主義支配下にあったといえる。
 世界を制した米国自身でさえも、空軍が独立したのは第2次世界大戦後であり、その後急激に「進化」するのだが、戦後に創設された「航空自衛隊」は、旧陸・海軍の航空部隊が併合された上、独立した空軍戦力として発足したのは幸運なことであった。
 新治教授は「中国空軍は、当初林少佐が教育し、短期間に戦力化した軍隊であり、そこには良好な教育をすれば即刻能力向上できる中国国民の潜在力がある。
 若い中国空軍軍人達は自尊心からかそれを言いたがらないらしいが、中国空軍指導者達は、林らに対して、今でも決して忘れてはならない『中国空軍の友』として尊敬し、英雄とみなしているのである」と本論文を締めくくっている。
 上海で中国の空軍大佐たちと酒を酌み交わした私は、同席した現役空軍大佐達に林少佐のことを問いかけたのだが、彼らはよく理解していたから林少佐を尊敬していたと思う。
 大空にロマンを求めた者同志の友情物語が切っ掛けで、4回にわたって中国空軍創設秘話をご紹介したが、諂うことを「友好」と勘違いしている政治家や、利益中心の商売人達には理解できないかもしれない。しかし、林少佐の貢献は歴史的事実であり、そこにはイデオロギー抜きの信頼感が生まれていることも事実である。国家に命を捧げる軍人同士に出来ることが、政治家や商売人達に出来ないはずはない!と思うのだが・・・。    (終り)

(先ほど、新治教授から丁寧な文書のコピーが届いた。ご紹介した論文は、彼が平成11年に航空自衛隊の部内誌に発表したものを私が抜粋引用したものだが、教授は「軍事史学」第36巻第3・4合併号〔平成13年3月25日発行〕に「関東軍林飛行隊と中国空軍=中国空軍建設に協力した日本人の記録=」として再録している。それによると「・・・延安を最初に出発して航空学校建設に着手した劉風と蔡云翔・・・」と書いたが、蔡ではなく「葵云翔」の間違いであったからここで訂正しておきたい。巻末の『註』に詳細な出典が示してある。)