軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

妻の目から見た自衛隊

24日の「救出シミュレーション」は盛会だった。基本構想解説後、参加者の意見を求めたが、軍事関係の専門家や、被害者家族など、参加者の多くが真剣な意見を出し合うディスカッションは実に貴重だった。国は、いざという場合に備えて、少なくとも計画案だけでも持っておくべきであろう。
今日の「桜林美佐、ひとり語りの会」も盛況だった。「にっぽん流行歌(はやり歌)の黎明」と題する、彼女が構成した物語は、事実関係を良く調べてあり感心した。わが国に「マーチ」が入ってきた幕末の“混乱”をテーマに、「宮さん宮さん」から「アッツ島決戦勇士顕彰国民歌」まで、興味深い背景説明(語り)と彼女の歌、それに飯塚彰子氏のピアノ伴奏が実によくマッチしていて観客を楽しませてくれた。
このブログで紹介した私の「中国空軍誕生秘話」は、やはり「秘話」であった事が分かり、多くの方々から「いい話でした」といわれたのは嬉しかった。
明日はまた、台湾海峡防衛に関するシンポジウムである。

そこで今日は時間がないので、御約束どおり家内が部内誌の懸賞に応募した作品を、二回に分けて連載する。勿論本人の了解は得てある。


「妻の眼から見た自衛隊・・・一航空自衛官の妻の16年の回想」

〈はじめに〉
太平洋戦争が終わって今年で40年目を迎えました。昨年は航空自衛隊創立30周年にあたり、わが国の防衛論議もここ一,二年一段と活発になった感があります。
 戦後生まれの私にとって、太平洋戦争は歴史の一頁にすぎませんが、縁あって航空自衛官である主人に嫁いだ私にとって、この十六年は無我夢中の十六年でありました。
 子供たちも成長し、机に向かう時間ができるようになった今日この頃、久々に学生時代に戻って十六年間の所感を、一航空自衛官の妻として述べてみたいと思います。

〈結婚・・・・事故、そして自覚〉
 私どもが結婚しましたのは昭和四十三年十一月末、主人が二等空尉で、九州の築城基地に勤務する時でした。
 東京育ちの私は、航空自衛隊のことなど何も知らないまま、東京で式を挙げ、主人について九州へ参りました。
 航空基地はどこでもそうですが、交通の便の悪い片田舎にあり、農家の二軒長屋に新居を構えましたが、賑やかな東京とは余りの変わり様に、主人がアラート(スクランブル)勤務で帰ってこない時の夜などは、恐ろしいほどの静けさと暗さに一睡も出来ない有様でした。
 けれども御隣が同じ飛行隊のパイロットの方で、私どもより半年早く結婚された重松さんとおっしゃる方で、新婚同志であったこともあり、奥様とは互いに語り合って慰めあったり、また二人してよく、アラート勤務についていた主人達に会いたくて、アラートハンガーのある外柵のところまでお散歩に行っては、手を振ったりしたものでした。
 そういうわけで、重松さんと主人が朝七時頃出勤するときには、農家の庭内には出陣するパイロットを見送る女学生?のような賑やかな光景が繰り広げられるのが常でした。
 翌年四月、私どもは築城町にある六畳と四畳半の小さな官舎に引っ越し、今度は主人の同期生で、隣の飛行隊のEさんと同じ屋根の下に住むことになりましたが、忘れもしない五月十一日、この日は小雨けぶる天気の悪い日で、北海道から出張してこられた主人の同期生のIさんを車で小倉まで送っての帰り道、ラジオが「F-86F墜落」とニュースを伝えているのです。
 主人は「こんな天気の悪い日にスクランブルしたのかなあ」といいながらハンドルを握っていましたが、アナウンサーが「小口1尉、重松2尉、高村1曹・・・」と行方不明になっているパイロットの名前を言うと突然「アッ」と絶叫し、「まさかあの方達が・・・」と泣き出した私と共に猛烈なスピードで帰宅、官舎に飛び込みました。
 なんという事でしょう。主人の飛行隊の事故だったのです。しかも飛行班長でいらっしゃる小口1尉と、若い候補生の高村1曹、そして信じられないことに、新婚当初の四ヶ月を隣同士で過ごしたあの重松さんのご主人様の三人が一挙に亡くなったのです。私は重松さんの気持ちを思っていてもたってもいられない思いでした。
 更に驚いたことには、はじめは主人も4番機で飛ぶ予定だったのが、計画の都合で唯一人生還したM3尉と交代したのだというのです。
 主人は直ちに隊へ出勤し、以後亡くなられた三名のご遺族係の長を命ぜられ、殆ど家に帰りませんでした。
 私どもが入居しました官舎地区は、飛行隊関係の方ばかりであったため、奥様方のショックも大きく、時がたつにつれて事故の概要が判明し、やがて三名とも殉職された事が確認されました。亡くなられた小口1尉の奥様は気丈な方でしっかりしておられましたが、さすがに泣き崩れられ、その両肩を飛行隊長夫人が支えて共に泣いておられました。小口1尉には、当時三歳と一歳のかわいらしい子供さんがおられ、そのあどけない寝顔を見た私は、強烈なショックを受け、唯もらい泣きするばかりでした。
 私は先輩の奥様にお願いして重松さんの方に御手伝いに伺わせて頂くことにし、取るものもとりあえず、慰めの言葉も見つける事が出来ないまま、彼女のもとに急ぎました。
 重松さんのところにも、ご近所で借家住まいをしていらっしゃった飛行隊の奥様方が、交代で詰めておられました。「重松さん・・・」と呼びかけた私の顔を見ると彼女は「佐藤さん、主人が・・・」というなり駆け寄ってきました。私どもは思わず御互いに抱き合って泣き出してしまいました。神様は何と酷い事をなさるのかと、この時ほど辛く思ったことはありません。若い高村候補生のご遺族は、町内の旅館に泊まっておられたそうですが、ご老母様の御心中はいかばかりだったことでしょう。しかも計画が変更になっていなければ、この悲しみは私自身のものともなっていた筈なのです。
 ご遺体が遥か山陰の地から戻り、部隊で通夜が行われ、厳粛な葬儀が執り行われましたが、生まれて始めて参列した自衛隊の式典が築城基地の部隊葬であり、これは航空自衛隊のジェットパイロットの妻としての自覚もないまま嫁いだ私が、半年後に受けた強烈な洗礼でもありました。
 蒼白な顔でじっと耐えている、一年にも満たない結婚生活で未亡人となった重松さん、そして何よりも眼を見張ったのが編隊長小口1尉の奥様で、「私の夫の誤りで、皆様方の大切な方を失わせてしまい、お詫びの言葉もありません。どうぞ許して下さい」と、僚機であった二人のご遺族に謝って回っておられた御姿に、身体に電流が流れるような衝撃を受け、私の夫が編隊長だったら、私には果たしてあのような行動が取れるだろうかと深く考えさせられたのです。
 主人は、事故発生から葬儀終了まで、遺族係の三人の部下の方々を指揮して多忙を極めていましたが、葬儀終了後そのまま、英霊をお送りして長野県岡谷市まで飛びました。
 二日後、主人は英霊を無事にお送りして帰宅してまいりましたが、眼の回るような忙しさと、気が遠くなるようなこの悲しい一週間が終わってみると、航空自衛隊パイロットの妻になったということは、尋常なことではない。今までのように女学生気分ではいられない、好むと好まざるとに関わらず、今回のような事故は身近に起こりうる。その場合、若いからとか、女だからとかの理由で悲しんでばかりいられない。航空自衛官の妻となった以上、小口夫人のようにそれに耐えて責任を果たさなければならないのだと自分に言い聞かせると共に、主人には絶対に起こらないようにと強く念じたのでした。  (続く)