軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

飛虎将軍・杉浦少尉の里帰り!

今朝の産経24面に表記の記事が出た。

平成12年3月、世界台湾人同郷会の招きで、台南、高雄を訪問した時、老台北こと蔡焜燦先生に案内されて、家内と共に参拝したことがある。
立派な御廟もさることながら、それに伝わる物語に元パイロットとして感動したものだ。蔡先生の説明の後、我々は威儀を正して3人で「海ゆかば」を斉唱した。ここでは毎朝夕に、「君が代」と「海ゆかば」の演奏が流れて弔われている。


≪飛虎将軍廟の外観とその内部:当時撮影≫


昭和44年5月11日に、当時築城基地勤務で、新婚ほやほやだった私は、山陰の基地の航空祭で祝賀飛行を命じられていたが、突如二日前に搭乗計画が変更になり、2軒長屋で共に新婚生活をエンジョイしていた重松2尉とその飛行位置が入れ替わった。
5月の連休に連続してスクランブル勤務についていた“新婚”の私に、代休を取らせようとしたスケジュール幹部の配慮だったのだろうが、その気遣いが重松2尉には裏目に出たのであった。
事故後はご遺族係として亡き戦友に尽くさせていただいたが、10回忌法要で現地を訪問した私は、彼の実母を墜落現場の山中に案内する途中、「拓男は本当にいいところで死んでくれました…。場所が場所だったら犬畜生のように扱われるのに、本当に親孝行してくれました」と言われ戸惑ったことがあった。

当時は自衛隊が事故を起こすと、世は上げて(といっても殆どはメディアが煽ったのだったが…)たしかに犬畜生扱いされていたものだ。

墜落位置が3キロも離れているのに≪一歩誤れば市内が大惨事に…≫などと大見出しで書かれて切歯扼腕したものだった…。


杉浦少尉が墜落したのは、大戦中の昭和19年であったとはいっても、墜落する地域が異なるとこれほど手厚くお祭りして頂けたのだ、とうらやましく感じたものだったが、当時の島根県平田市の住民の思いやりも台湾の皆さんと少しも違わぬことを知って私は涙したのである。
当時、重松の母上の言葉を聞いたわれわれ戦友は「島根のためだったらいつでも死んでやる!」とまで言ったものだった…。
平田市にも将軍廟ほどではないが、小ぶりだとは言え立派な延命地蔵尊が立てられて、毎年欠かさず供養されている。ここには“台湾精神”が息づいているのである…。

いつの時代にも、「軍人を犬畜生並みに卑下する」イデオロギーの異なる民衆はいるものだが、このように変わらぬ供養をしてくれる人間性溢れる民衆も日本国内にもいるものなのだ。

島根半島山頂近くに立つ「延命地蔵尊」≫


杉浦少尉の“里帰り”の発端は、今春現地を訪問した日本人作家の「夢枕」に立ったことだという。その中で杉浦少尉が「水戸に帰りたい」と話したそうで、廟が所属する寺院が、「占いで主神の意思を確認したところ、その通りだとの結果が出た」のだという。
「主神が廟の外に出るのは初めてで、中華航空は神像のために座席の手配に応じた」というから嬉しくなる。
日本だったら、機内貨物室預かりで運搬したのじゃないか?
今時の日本人は「神を神とも思わないから…」

≪管理委員会の呉進池主任委員(60)は、21日朝、「いつも厳粛な表情の飛虎将軍が、今日は微笑んでいるようだ≫と話したというが、間違いなかろう。きっと喜んでいたに違いない。

どれほど多くの英霊方が、杉浦少尉のような気持ちで母国を恋焦がれておられることか、それを一番理解しておられるのが天皇であり、現憲法下で動きがとれぬ悔しさにさいなまれておられるのではないか、と私はいつもご想像申し上げている。


それにしても3000年近い歴史と伝統を持った“神国・日本”は、たった一度の敗戦で斯くも自信を失い、長いものにまかれてことなかれ主義に陥り、世界の平和に貢献するとは口先だけで、舶来文化を尊重し、ぬるま湯につかって事足れりとする民族に成り下がったものか、と悲しくなる。
「里帰りされた杉浦少尉の御神像は、再び台湾に戻るが、分祀の計画もあるという」と記事にはある。
護国神社で慰霊祭が行われた後、杉浦少尉はあまりにも情けなく落ちぶれた“祖国の実情”の姿に、一日も早く台湾にお戻りになろうとされるのではなかろうか?と心配になる。
ルバング島から帰国された小野田少尉が“祖国”を捨てて去って行かれたように…。

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