軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

38回忌

 昨日は88歳の元特務機関の方から貴重なお話を伺ってきた。大陸で終戦を迎え、国民党と共産党、それに満州に侵入したソ連軍とチンタオに上陸した米軍と・・・。混乱の中、如何に邦人を無事帰国させるかに苦労した話、重慶から日本軍占領地域に“進出”してくる蒋介石軍を日本軍が“護衛した”話、親切だった蒋介石軍の大尉の話、何よりも、満州での国共決戦に出向いた軍隊10万が行方不明になっている話などなど、あっという間の2時間だった。今後も続けて取材させていただき、記録にとどめおきたいと思っている。
 ところで中国の「コピーランド事件」は意外な展開を見せているようだ。W・ディズニーが怒ったらしく、中国政府はあわてて「証拠隠滅」を図っているという。キャラクター人形達が、無残に叩き壊されているシーンを見たが、手馴れた対応振りに何となく「南京大虐殺」のシーンを髣髴とさせられる。息子が買ってきた「東スポ」第一面には、「白雪パクリ姫・7人の小人も破壊」「異変・中国ディズ似ーランド」と巨大な印字と写真が踊っている。
「本家ディズニーの提訴警戒か」というが、「おみやげミッキーはただのブタに」なり、「ニセモノキャラ次々と撤退」だそうだが、やはり「軍事大国・米国」のディズニーの怒りが怖いからだと見える。何せ「オリンピック」が控えている。他方、今までやられっぱなしで、コピー被害が甚大な筈の日本企業は「怒らない」らしいから中国政府はちっとも怖くないらしい。舐められたものである。
 今朝の産経3面には、米下院の108人の議員が、中国はダルフール虐殺を支援しているとして「五輪ボイコットを警告」したという。オリンピックが中止になれば、あの国は騒乱状態になるだろう。何せ、ひとつ星以下のホテルさえも、どんどん五つ星の看板を掲げて“格上げ”されていて、宿泊料金を吊り上げているというから、外貨獲得の絶好のチャンスを失いかねないから、業者は勿論、政府のもくろみもパーになりかねない。それを阻止するためにはますます日本の利用価値が大きくなる。経済界は勿論、「天皇を利用」して、何とか開催しようとすることだろう。安倍首相には的確冷静な判断を求めたい。戦後レジームからの脱却に良いチャンスとなり得るだろう。

 ところで今日5月11日は、私の38回目の“命日”である。昭和44年5月11日、当時、築城基地のF-86F部隊・第10飛行隊に所属していた私は、この日予定されていた美保基地での航空祭の祝賀飛行を命ぜられ、タイガー編隊の4番機に指定されていた。編隊長は小口1尉、2番機・高村候補生、3番機・重松2尉、そして私が4番機、予備機が寺尾3尉であった。ところが前日に、2機編隊長資格取得訓練を受けていた前田3尉を早く仕上げたいということで、私と入れ替わって飛ぶことに決定された彼が3番機に指定された。
 そこで私が指名されていたダイヤモンド隊形の4番機という最も危険なポジションに、3番機であった重松2尉が入れ替わることになったのである。
 現地の天候が悪かったため午前中はスタンバイしていたが、天候回復という情報を信じて、正午前に編隊は築城基地を離陸した。しかし日本海側は分厚い雲に覆われていて降下することが出来ない。美保基地上空はぽっかり空いているということで、島根半島西側から、レーダーの誘導に従って編隊はダイヤモンド編隊を組んだままで雲中降下飛行に入った。しかし、地上に近づいても雲から出る気配がない。そこで進入中止を決断した編隊長が上昇に移ったとたん、島根半島の山頂部に激突して3機が墜落、私の代わりに飛ぶことになった前田3尉は、松の大木をなぎ倒して左主翼前面を大破しながらも奇跡的に帰還した。つまり、飛行計画が変更になっていなければ、私は4番機のポジションで「重松2尉」のような姿で殉職していたのであり、当初3番機であった彼は生還した筈なのである。私と入れ替わって飛んだ前田3尉が生還したことがせめてもの慰めだったが、重松も私も新婚6ヶ月目、官舎がなかったので共に農家の2軒長屋を借りて隣同士で住んでいた仲だったから、特に家内の受けた衝撃は計り知れなかった。
 事故を知って飛行隊に駆けつけた私は、飛行計画ボードの名前は正規に指名された4名の氏名が掲示されていたものの、隣のボードには、ダイヤモンド隊形の4機編隊の図が残っていて、編隊長・小口、2番機・高村、3番機・重松、4番機・佐藤となっており、重松2尉以外の、私を含む左半分の3機は「黒丸」ではっきりと囲われていたのである。それを見て私はこの日に死んだ!事を悟ったのであった。
 先日のエキスポランドの事故でも、順番待ちしていて入れ替わった方が助かり、席を譲った彼女が亡くなったという。譲ったほうも譲られたほうも、心が重いだろうことは良く理解できる。私もこのとき、人間万事塞翁が馬であることを悟ったのであった。
 このとき唯一人生還した前田3尉は、仲間が直接激突する瞬間を目撃して明らかに精神的ショックを受けていた。その後彼は教官勤務など飛行を続けていたが、このとき受けたショックからか、若くして癌で他界した。今は黄泉の国でタイガー編隊に合流して飛び続けていることだろう。
 現地・平田市の有志が、事故現場に「延命地蔵尊」(写真)を建立してくださり、今でも供養をしてくださっていることは感謝してもしきれない。多分今日も殉職した3人に花を手向けて下さっていることだろう。
改めて3人の冥福を祈ると共に、平田市の皆様に心からお礼を申し上げたい。


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