軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

陸上自衛隊はなぜ攻めてこなかった?

北朝鮮崩壊予測?を書いたところ、色々なご意見が寄せられている。中でも面白かったのは、陸上自衛隊北朝鮮を「開放しては?」という≪忍緒氏≫のコメントであった。

2001年6月にサハリン(樺太)を視察したとき、面白いことを体験したことを思い出した。
羽田から函館に向かい、函館からロシアのおんぼろ飛行機に揺られて2時間、ユジノサハリンスク(旧豊原)に向かう。私は昭和14年(1939年)8月にここで生まれた、と父の日記には書いてある。60年ぶりの「センチメンタルジャーニー」だったのだが、各地を見て驚いた。とにかく、サハリンは昭和初期の日本統治下の「原風景」と思しき状態なのである。いや、はるかに日本時代のほうが活気があり、当時のほうが近代的な建物が多かったといえる。つまり、父の日記帳に張ってある写真や絵葉書などと比較して、あれから半世紀以上もたっているのに、日本時代のインフラが活用されていて、何の進歩もなく人民の生活は貧困この上ないのである。何が「人民の幸福」を優先し「差別なき社会建設」を目的とした共産主義か!と軽べつし、こんなイカサマを信じている日本人は、一度サハリンに住んでみるが良い、と思ったものである。
一気に国境(北緯50度)に近い旧「敷香」まで北上して、鉄格子がはめられ「危険(犯罪)防止のため」外から鍵をかけられた、トイレットペーパーもない、旧王子製紙の寮に泊まったのだが、これがかって米国と覇権を争った「ソ連」の実体か、と驚いたものである。
国境を視察して、再びタコ部屋に泊まり、翌早朝今度は一気に南下したのだが、途中旧「栄浜」で休憩したときのことである。
ようやく見つけた駅のトイレ?で、たった一人参加していたご夫人が用を足して、マイクロバスに戻ったのだが、あまりの不潔さに嫌気がさした彼女と、私も一足先にバスに戻っていたので、直接聞いた話ではないことをお断りしておくが、タラバガニを売っているロシア夫人たち、それを取り巻いているロシア人たちが、日本人のわれわれに話しかけてきていた。中に極めて上手な日本語をしゃべる、迷彩服の男がいて、本人は「森の番人だ」と自己紹介していた。とにかく酸性雨の被害がひどく、森林はいたるところ枯れて惨状を呈していたから、多分本当だったのだろう。
出発時刻になったので、どやどやと乗車してきた仲間たちが、「佐藤先生、彼(森の番人)がどうして自衛隊はサハリンに攻めてこなかったのか?というんですよ」と笑いながら私に告げたのである。
日本人のほとんどは「冗談」と捉えていたが、彼(森の番人)は真剣だったらしい。自衛隊が攻めてくれば、われわれは空に向けて銃を撃ちながら後退し、本土から援軍が来ない前に降伏する。日本に占領してもらったら、どんなに幸せになったことだろう」というのである。
ユジノサハリンスク(旧豊原)に着いて、夕食後のひと時、私は自分が生まれた病院だと父の日記に書いてあり、看護婦さんが玄関前で写っている写真と、大まかな地図を元に「高田病院」を求めて一人ホテルを出た。
薄暗い通りを歩いていると、売店らしき建物を見つけたので中に入ると、雑貨店であったが、生鮮食料品は品切れで、牛乳が少し、あとはタバコと酒が並んでいた。
お土産にウォッカを買おうと思い、女主人に見せてもらっているところに、みすぼらしいオーバーを着た紳士(日本風にいえば元校長先生的雰囲気)が入ってきて、いきなり小瓶のウォッカを指差して、私に「買うのは止めろ」というしぐさをする。後は彼の独演会になったのだが、身振り手振りを元に判断したところ、ゴルバチョフもエリチィンも全く信用できない。われわれは捨てられた!といっているらしい。そして「大瓶の方を買え」というのである。「店の“桜”か?」と思ったのだが様子が違う。彼はタバコを一箱買うと私に「大瓶」を勧めて店を出て行った。
女主人にわけを聞いて理解できた。私は「同じラベル」だったから、同じメーカーのウォッカだと思い、出来れば小瓶のほうが便利だと考えたに過ぎなかったのだが、女主人は、瓶の裏ラベルを指差して何か説明する。つまり、小瓶は「モスクワ製」、大瓶は「樺太製」だったのである。二人は、モスクワ製を軽べつしていて、樺太製の大瓶を勧めたのであった。
私も同意して大瓶2本を買って外に出て、再び病院探しに歩き出したところ、例の「紳士」に出会ってしまった。彼は私が「大瓶2本」を抱えているのを見て大いにご機嫌になり、再び演説を始めたのだが、ロシア語は分からない。そうする間に周りには人垣が出来始め、なんとなく不穏な感じを受けるようになった。
彼は英語とロシア語をちゃんぽんに演説するのだが、私は人垣が気になって仕方がない。「仲間が待っているから、ホテルに帰る」と言って解放してもらおうとしたのだが、彼は「ヤポンスキー、サトー(彼から名乗ったので、私も名前を教えた)、ハラショー」と大声で叫ぶ。
これまた独断と偏見で翻訳すると、「われわれはウラル山脈の東に住んでいたのだが、スターリンに追い出され、ここに住まわされた。ペレストロイカ何ぞでたらめである。すべてはクレムリンが富を独り占めしている(ものを袖の下に入れる仕草を大げさにした)」、ということだと理解した。そして最後に「ヤポンスキー、ハラショー、サトー、ハラショー」と叫ぶのである。
薄暗い通りには既に30人以上ものロシア人たちがわれわれ二人を取り巻いて、彼の演説を聞いている。聊か不気味になったので彼と握手して別れたのだが、彼は手を握って離さない。ついに肩に手を回されたから私も、ウォッカの瓶を抱えたまま、右手で彼と肩を組んだのだが、群衆は静かに見つめるだけであるからなおさら不気味である。
ようやく解放されて足早に離れると、後ろから「ヤポンスキーサトー、ハラショー」と大声で叫ぶ声がする。振り返りつつ手を振ったが、車道を日本製の中古車が私をつけてくる。中には4〜5人の青年が乗っているから不気味である。
ホテルに無事帰り着き、仲間に報告したのだが、実に良い体験だった。

ところがこれには後日談がある。
帰国した後、都内の軍事研究会で同席した陸自の先輩と昼食中、私の体験談を言うと、先輩は「いつの話だ?」と聞く。そして「現役時代、北海道勤務中にお前と同じ体験をした」といって、次のように語ったのである。
自衛隊の部隊が所在する町には、どこでも「レポ(情報員)」が張り付いている。例えば表向きはパチンコ屋とか、焼肉屋、中華レストラン・・・などであるが・・・。
その「レポ」が会いたがっているから会ってみたらどうですか?と「専門屋」が言うので、その「監視の下」に夕食したところ、「レポ」は、私が樺太で聞いたことと全く同じことを言ったというのである。つまり、「陸上自衛隊に“樺太逆上陸!”してほしい」と言ったのである。当時は米ソ冷戦の真っ只中だったから、「謀略に違いない。冗談も休み休み言え、という気になったが、案外本音だったのかも知れんなあ」と先輩は言った。
私には「これ」が彼らの本音だと思えてならないのだが、外務省のラスプーチン佐藤優氏の意見を聞きたいものだ。

聊か無責任のそしりは免れないが、≪忍緒氏≫が言うように、陸上自衛隊が「北朝鮮に乗り込んだら、軍の中から協力者が出て、金政権は崩壊」。こうして北を≪開放≫することが出来たら、韓国大統領はどんな顔をするだろう? 極東情勢は一気に面白くなるかも・・・などと思うのだが、日本人には、こんなシナリオはどぎつ過ぎて「冗談だ」としか考えられないだろうなあ、と思うのである。