軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

安全保障新時代『敵基地攻撃論』

産経新聞に連載中の本日の「表記」記事は面白い。「北ミサイル日本着弾シミュレーション」で、「『防衛出動』激動の一日」を描き、結局「専守防衛は機能しない」と結論付けていて、最後の部分で「委員会室を後にした安保委員会理事の野党議員の一人は『実際の攻撃を想定していなかった専守防衛だけでは、国民の生命と財産は守れなかった・・・』と漏らした」ことになっている。政治家の「無責任さ」が浮き彫りにされていて秀逸だが、陸海空を問わず、自衛隊では、創設以来黙々と「演習」を続けて、有事に備えてきた。34年間勤務した私も、少なくとも34回の「空自総演」に参加して、懸命に祖国防衛の一翼を担ってきた(つもりであった)。
しかし、位が上がるごとにそこには大きな落とし穴があったことに気がついた。つまり、我々の「演習」は、「防衛出動が下令された」ことを前提にして、全力投球をし、その後演習の教訓を防衛計画に反映させるという、他国では当たり前のことを連綿と続けてきたのであったが、この記事でわかるように、肝心な「防衛出動命令がいつ下令されるのか?」という点だけは、「ままごと」のように演習統裁部が「勝手に発令」してお茶を濁してきていたからである。勿論、そうしなければ、第一線で待機する部隊を動かすことは出来ないから、やむを得ない措置ではあった。しかし、「シビリアン・コントロール」だかなんだか知らないが、「本当に機能するのでしょうね?」というのが、ベルがなればスクランブルで離陸していく我々下っ端パイロットの疑問だったのだが、それには誰も『その筈だ』としか答えてくれなかった。我々は「それ」を信じて、ひたすら深夜の日本海に出撃したものである。
今頃になっても、産経が書いたように「うまく機能しない」のだから、私の34年間の人生は何だったのか?ということになる。栗栖元陸将が「超法規論」を語って首になったが、栗栖閣下の犠牲は何だったのか?
日本は「シビリアン・コントロールが徹底されている」というが、その実態は「シビル・アンコントロール」だといった私に、大声で笑ったのは在日米軍の副司令官・ドナー准将だったことを思い出す。
ここでふたたび「PR」だが。私が監修させていただいた「図解・日本の戦争力!」は、この点を「ソフト?」に解説している。9月22日発売に決定したからぜひご一読いただきたい。

ところで、昨日の私のブログに対して、実に真摯なご意見が寄せられている。こんな事を言うのも変だが、既に266万以上もヒットして、一日約10000人の方々が読んで下さっているのに、実に真剣な討議疑問にあふれ(聊か長いコメントも多いが・・・)、管理者たる私のほうが考えさせられている状態である。
思いつくままにコメントに対する感想を書くが、まず≪バグってハニー様≫が、私の発言が時々「右翼」的だとコメントされたが、私は元パイロット、「右翼」だけでは飛べず、「左翼」も、「水平尾翼」も、「垂直尾翼」も必要で、これらがバランスしないと「失速して墜落する」経験者であることを伝えておこう!要するに私は「中道」であり、私が「右翼」的に見える方は私より「左翼」的なのである!
冗談はさておき、≪ネルソン様≫のご意見には、「平和はいかに失われたか」(ジョン・アントワープ・マクマリー原著。アーサー・ウォルドロン編著。衣川宏訳:原書房)をお読みになることをお勧めしたい。いわゆる「マクマリーメモランダム」だが、満州事変に至る中国大陸の様相が良く分かる。
北海道で漁船員が射殺され、船長が拘留されている件で、ロシアのラブロフ外相が「領土問題と事件を関連づけることは適当でない・・・」と述べた件に関し、領土問題が決着していないからこそ起きた事件だ、という意見には賛成である。
かってソ連と中国は、国境線で連隊規模以上の「紛争」をして殺しあったが、そのとき窮地に立っていた中国は、日本に軍備を増強せよとさえ言った。
ソ連が崩壊してロシアになってから、両国は「国境画定作業」を進め、昨年だったと思うが、ようやく線引きが出来た。
それ以降、国境紛争を回避するため、中国とロシアが中心になって、特に国境を接する国々の間で会合を持つことにした。それが≪上海協力機構≫である。
国境線の線引きを確定しない限り、北方領土をめぐるこの種の事件は無くならないだろうという「好例」である。
朝日新聞の加藤解説委員についてはいまさら述べることもあるまい。彼は中国の「代弁者」に堕していて、それが彼の信念から来たものか、あるいは弱みからかは知らないが、国家体制が違う中国にいくらゴマをすっても「いつかは切り捨てられる」のが落ちだと気がつかないのであろう。前原前民主党代表は、歴史問題や靖国問題では、中国の「代弁」をしたが、「脅威発言」をした途端、切り捨てられた。
その昔、ソ連にあこがれて「樺太の国境」を、“愛の逃避行”でソ連に脱出した、女優と「連れの男」の運命がどうだったか、もう一度思い起こすべきである。

米国論?については、単純に意見を述べるほどの知識教養は無いが、先日久しぶりに衛星放送で「西部開拓史」を見る機会があった。もっとも、全般を通じて「ゆっくり」鑑賞したわけではないが、昔を思い出しながら懐かしく鑑賞した。
わずか建国200年余の米国が、あれほど急成長した原動力は、やはりあの「開拓者精神」にあるのではなかろうか?一面の「荒野」を、西部へ、西部へと開拓していく「旧大陸」から脱出者してきた、老若男女たちの逞しさ!
しかし一方、彼らの冒険心の強さに反比例するように、旧大陸に捨ててきた?「宗教心」と「文化」に対する愛着心に揺れる彼らに、現代米国人の根源を見た思いがしたが、同時に、コロンブスが発見した「新大陸」とは、彼らの“まやかし”であり“自己欺瞞”であり、彼らなりの「正義感」で、原住民の正義は無視し、彼ら弱小民族を近代兵器で駆逐して勝ち取った「大地」であることは疑いない。つまり、「左翼主義者好み」の言葉で言うと、彼らこそ「侵略者」だったのである。「新大陸」と呼称して、「原住民の領有権」を無視して追い払い、資源獲得、占有地を拡張っする・・・などなど、活力はあるが、何かにすがらねばならない、つまり「正義」を裏付ける何かを求めなければならない人間としての「弱さ?」がある、現在の米国の精神を構築した原点を見るような気がした。その負い目が大戦終了直前に、国際法を無視してわが領土に侵入したソ連の「傍若無人な」非人道的行為に、口を挟めないトラウマになっているのではないか?などと思ったりもした。
そのつじつまをどう合わせるか、米国人にとっては一つの大きなジレンマなのかもしれないが唯一の救いは、宗教心に基づく何らかの「反省」が伴うことであろう。
もっとも、ロシア人や中国人たちは、過去のそんな「傍若無人な」侵略行為などは、気にも留めないだろうし、現に北方領土を侵略して恥じず、居住権を持つ日本人を「インディアン並み」に平然と射殺するのだから、ロシアこそ、いまだに「西部開拓史」並みの時代感覚の「後進国家」だと思わざるを得ない。そこが米・露・中3国の決定的な違いであり、友を選ばば・・・ということなのかとも・・・。
歳をとってから、昔の映画を見直すのもいいことかもしれない。