軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

軍隊はなぜ存在するか?

今朝の産経新聞一面(一部5面)の「敵基地攻撃論」は面白い。「先制攻撃」「予防攻撃」という、いわば軍事常用語を回避して、専守防衛を旨とする日本特有な「敵基地攻撃論」のまやかしを追及しているからである。
「単純な例え」として、予防攻撃は「銃を持って立っているだけの相手に発砲すること」、先制攻撃は「銃をこちらへ向けている相手に先んじて撃つこと」、そして敵基地攻撃論は「こちらに銃を向けて引き金に指をかけた相手への発砲」だという。
石破元防衛庁長官は「敵が日本への急迫不正の侵害に着手した時点」を攻撃の前提としたが、政治家としてはそのような表現しか使えなかったろうから、発言としては「適切」だったかも知れないが、現実には「誰がそう判断するのか?」という点で大いに疑問が残る。
私のように34年間も戦闘機に乗って「見敵必殺」精神を叩き込まれ、叩き込んできた者にとっては、上空で発見した「機影」は、すべて敵であり、攻撃の意思を持っているものとして対処しなければ、生き残ることは出来ないから、機先を制する行動に直ちに取り掛かる。「敵か味方か?(一応は配慮するが)」「ミサイルを積んでいるか?」「引き金に指がかかっているか」など、不可能なことをいちいち確認していては、撃墜されること必至である。勿論「相手側」も同じ考えであるに違いない。
戦闘に「敗北」してしまってから、あの時は「人道的配慮から・・・」だとか、「急迫不正の侵害とは思わなかったから・・・」などといっても始まらない。
産経新聞の安保取材班は「敵基地攻撃論をめぐる論議の深まりが望まれる」と締めくくっているが、その前に「軍隊はなぜ存在するのか?」という基本的なことを考えてもらいたいものである。
戦後の「平和憲法」の下では「自衛隊は軍隊ではない」と吉田首相が答えたからか?憲法第9条の解釈をめぐって「自衛隊は政争の具」にされ続けてきた。
しかし、廃止せよとは、共産党でさえも言わなかった。一部の、ご先祖様を異にする人たちの集まり?であった野党が吼えた時期があったが、自民党に「抱き込まれて」委員長が「首相」になり、女性党首が衆院議長になったとたん「自衛隊違憲だが合法だ」などと、支離滅裂な解釈をして勲一等をもらったが、その流れを汲む政党には、国民がそっぽを向いてしまい、今ではその面影?も無い。
つまり、バブルに踊っていた日本人は、軍事や戦争などどうでもよかったのであって、同盟国軍隊を「番犬」に見立てて一時の「栄華」を楽しんできただけであった。

軍隊はなぜ存在するか?
現役時代、熊谷基地で幹部教育を「ボランティア」でして頂いた時、松原正早稲田大学英文学教授が、「全うな国の軍隊は何のために存在するのか?」と語りかけ、「決まっている、『国民の生命財産を守るためだ』と大半の日本人は答えるだろう。君たち自衛官もまたそう答えるに違いない。だが、果たして然るか?」と問いかけた。
そして、米英がイラクと戦った湾岸戦争を例に挙げ、「自国民の生命財産を守るためにイラクと戦ったのか?」として、「両国は中東にさまざまな権益を有しているから、今回の出兵がもっぱら正義感に基づくものだったとはいえまいが、彼らはハムレットの末裔なのであって、ブッシュ大統領も正義感ゆえにフセインの侵掠を許せなかったことも確かである。つまり、米英が戦ったのは自国の権益を守るためでもあったが、必ずしも自国民の『生命財産を守る』ためではなかった。両国がフセインに侵掠されたわけではないからである。
全うな国の全うな軍隊は、自国民の生命財産を守るために存在しているのではない。日本人の大半がそう思い込んでいるのは知的に怠惰で『専守防衛』などという戯言を鵜呑みにして深く考えようとしないからである。
・・・欧米は今もなお『人はパンのみにて生くるものにあらず』と信じている。そういう『パン以外のもの』のためにこそ軍隊が必要なのだと考えている。然るにわが国においては、自衛隊の存在を肯定する者も、専ら外敵の侵略に対処するというようなことを言い、人間が道徳的に生きるために軍隊が必要だということはさっぱり理解していない。
・・・個人も国家も、おのが信念を貫くという道徳的な態度を持するために、おのが威信を守るために、時に他人や他国に対し『否』を言わねばならぬ。そして外交交渉で片付かぬ場合は武力に訴えるしかない」と講話したが、大いに感銘を受けたものである。
産経の『安保新時代』なる連載が、その辺まで突っ込めるといいのだが・・・。大いに期待したい。