軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

いわれなき批判に反論する

 昭和60年8月12日に起きた、日航機墜落事故での自衛隊の活動に付いて、私が反論した「月曜評論」のコピーを貰えないか?、という依頼があった。
 コメントにもあったように、既に当事の状況を知らない世代が自衛隊に育っているし、依然として事故原因は「自衛隊の標的がぶっつかった」という“共産党作家”の影響も残っているらしい。驚いたことにコメントには「中性子爆弾説」などもあって、まだまだ国民はこの事故の実情を理解していないことを痛感した。
 そこで、当時私が発表した文を、1〜5までに分けてここで再掲載しておきたいと思う。若き現役自衛官達にも、当時の状況を推察してもらいたい。

『いわれなき批判に反論する』
  …JAL機墜落事故=航空自衛隊の捜索救難活動について…

                防衛庁航空幕僚監部広報室長 一等空佐  佐藤 守

 八月十二日夕刻に発生したJAL機墜落事故は、五二〇名もの尊い犠牲者を出す史上最大の航空事故となったが、航空自衛隊は、事故発生が予測されるや間髪を入れず救難活動に移った。それにもかかわらず、翌日奇跡的に四名の生存者が発見され「他にも生存者がいる」との証言が報道されると、今度はあたかも自衛隊側の救難活動に問題があったかのような「自衛隊批判」が沸き起こったのである。
 夜間、二千m級の山岳地帯での救難活動がどのような困難を伴うものであるかなどの知識を持たぬ素人の批判ならまだしも、毎度のことながら「軍事専門家」なる怪しげな肩書きを持った「ニワカ評論家」が勝手な先入観に基づく無責任な放言をするたびに。防衛庁自衛隊に対する批判と抗議が相次いだ。けれども、広報担当者である我々が三〇分程かけて事情を説明すると、大半が理解納得してくれ、そのほとんどの人々から「新聞テレビの報道を鵜呑みにしていた」「もっと防衛庁は事実を積極的に国民に知らせるべきだ」との忠告をいただいたのである。
 航空自衛隊の広報の責任者たる私としては地獄絵そのままの現地で懸命に捜索・収容活動に従事した隊員たちの名誉のためにも、各種の批判に対し我々のとった対応振りを説明し国民の理解を得なければならないと考えていたが、今回はからずも本誌(月曜評論)に意見発表の場を与えられたので、航空自衛隊に対する代表的な五つの批判に対し反論する次第である。

1、 なぜ自衛隊はもっと早く出動し、夜を徹して行動しなかったのか?
 航空自衛隊がJAL機の異常を知ったのは十二日午後六時二十五分過ぎ、同機が「緊急事態発生」を知らせる識別信号を出したのを峰岡山レーダーサイトのスコープ上に捉えた時である。サイトの管制官は同機の故障内容や詳しい状況については、無線周波数が異なるため承知できなかったが、スコープ上の機影は羽田に戻ろうとしているように見えた。そのまま注目していたが、飛行コースが正常とは思えないため、埼玉県入間基地にある防空管制所に通報、中部航空方面隊司令部の当直幕僚も極めて異常であると判断、直ちに防衛部長に報告、大中康生部長は指揮所開設を指示し幕僚を配置、同五十七分機影がスコープ上から消えるや、松永貞昭司令官は対領空侵犯措置任務のため、茨城県百里基地で五分待機についているF-4EJファントム戦闘機に対し発進を命令、命令を受けた四分後の午後七時一分には二機が発進し、JAL機がレーダーから消滅した地点に向かって急行したのである。
 司令部は同時に非常呼集を発令すると共に百里にある航空救難隊の救難用ヘリコプターV−107一機に出動準備を命じた。
 午後七時十九分、たまたま飛行中であった米軍のC−130輸送機から、山岳地帯で異常な炎を発見した旨の通報と、その二分後にはF−4戦闘機から「山火事の発生している場所は、横田タカンから三〇〇度の方向三十二マイル」との報告を受領、この時点で航空自衛隊としてはJAL機の墜落は間違いないとして捜索・救出のための諸活動、即ち非常呼集で集まってきた隊員の中から、とりあえず三〇名の先遣隊を編成する作業に取り掛かり、熊谷、静浜、浜松等、近在の部隊にも応援を求め、各部隊はそれぞれ非常呼集を発令して隊員を呼集した。
 災害派遣要請権者である東京空港事務所長から、中空司令官に災害派遣の要請があったのは午後八時三十三分であり、部隊が初動を開始してから実に一時間半以上たっていたが、この七分後には入間基地から先遣隊三〇名が墜落地点に向けて出発、その二分後の八時四十二分には、百里基地から飛び立ったV−107が現場上空に到着し「横田タカンから二九九度の方向、三五・五マイル地点で、一五〇mから二〇〇m四方にわたり山腹が炎上している」ことを報告してきている。
 なお念のために申し添えるが、入間基地には航空救難部隊は所在せず、したがって救難団司令部は百里・松島・小松などからV−107および捜索機MU−2をそれぞれ三機ずつ、計六機を入間に機動展開させ、十三日午前零時十八分には集結を完了している。
 他方地上部隊は入間の先遣隊に続いて午後九時三〇分、熊谷基地から一〇名の先発隊を北相木村小学校に向かわせたが、これらの先遣隊は十三日午前三時三〇分及び同五〇分に到着、本隊は十三日午前一時に静浜基地から一一五名、入間基地からは同一時十五分五四八名、熊谷基地からは同二時に九十一名が出発、それぞれ明け方の四時五〇分から六時四〇分の間に北相木村に到着、中部航空警戒管制団副司令藪口1佐の指揮下に入っている。
 このように我々は、墜落したのではないかと判断した時点以降、関係機関から何ら情報や要請のないまま、独自に可能な限りの救難活動を展開していたのであって、決して夜間行動をしていなかったわけではない。    (続く)