軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

虚報・その3

 熱心な方々のコメントを読ませていただき考えさせられることが多い。いちいち返事はしないことにしているのだが、電車内での飲食に付いて、私はこうしつけられたし、今でもそう実行しているので思い出すまま書いておくことにしたい。
 私が戦中、戦後の子供時代をすごしたのは、長崎県佐世保市相浦町という田舎町だったから、当事は電車ならぬ“汽車”であった。客車の殆どが板張りの「ボックス席」だったから、アイスクリン(アイスクリーム・・・当事はそういって珍しがった)などを舐めることは良くあった。勿論、便所つきの客車だから、長距離買出しの大人たちは、適度の食事(といっても芋をかじったり、日干しをかじっていた)を摂っていたが、生活が安定するにしたがって、エチケットが重視されてきた。今でも忘れられないのは謡曲の趣味があった両親が、京都から先生が長崎に来て公演するというので、やっと手に入れた切符を大事そうに持って長崎まで2等車(今で言うグリーン車)に乗った。車内には占領軍である米国海軍士官達が陣取っていて、母が和服姿だったこともあったろうが、2等車に乗る日本人家族が珍しかったらしく注目されていて、子供の私は緊張していたが両親は平気であった。
 当事は戦勝国と敗戦国の間に[第3国]があったので、両親は普段から意識的に毅然と対応する姿勢をとっていたから、どうも意図的に2等車を奮発したらしい。この時も「戦争に負けたからといって、何も小さくなることはない」と平然としていたが、長崎までの間、お茶を飲みみかんを食べるくらいで、食事は我慢した。
 勿論、家族旅行で長距離汽車に乗る時には、ボックス席で楽しく駅弁を食べたものである。今で言うと新幹線内で向かい合って弁当を食べるのに似ている。
 そんな体験があるから、近距離のしかもベンチシートでは、とても食事をする気にはなれない。母は、茶道裏千家の師範であったから特に行儀・作法にはうるさく、買い食いや立ち食いをすると「行儀が悪い!」と厳しく怒られた。今は「行儀」という言葉さえ死語になっていはいないだろうか?
 このような母の教えが私の生活の原点であり、そんな日本人も未だ残っているというだけに過ぎない、と申し上げておく。

 さて、虚報の続きだが、コメンテーターの中に、元三沢基地勤務の隊員がいて当時のことを「補足」してくれたが、自衛隊関係の報道に如何に虚報が多いかを知っている隊員達は、その延長線上で「政治」「経済」「文化」面の記事を読み、自衛隊と同程度の「誤報」が混ざっていることを感じ取っている。少なくとも私はそうしている。
 たとえばその昔、原子力関係の意図的とも言うべき虚報で、我が国の原子力研究が大きく後退したことがあった。コメントにもあったが、茨城の原子炉で「放射線漏れ」が発生したとき、A者の記者は「放射能漏れ」と書いて国民を誤った方向に誘導した。その時の責任者であった「遮蔽室長」に聞いたところ、腕時計の夜光塗料程度の放射“線”漏れに過ぎず、握り飯を当てて遮蔽できる程度のものだったのだが、記者は意図的か不勉強からか“放射能”と書き、広島・長崎を持ち出したから国民は恐怖に走り、政府関係者はしり込みして、原子炉の研究は大幅に遅れる結果になった、と悔やんでいた。あの時の新聞記者は、むしろ、その程度の微量な「放射線漏れ」を探知したシステムを評価すべきだったのに・・・と彼は言った。 その後、原子力船「むつ」に飛び火し、ついに「むつ」は一度も全うな研究航海をすることなく、青森県陸奥湾を追い出され、県内各所をたらいまわしにされて、莫大な「ばら撒き行政」に“貢献”し続けただけで廃船となった。
 今、テレ朝が朝のワイドショーで、行政の不始末を鋭く追及しているが、「原子力船むつ」の実態は、それと比較にならないほどの垂れ流しであった。下北半島を廻って見るが良い。巨大な埠頭、港湾施設が廃屋のように林立している筈である。
 それと同時に、地上波テレビ局には「行政の不始末」のみならず、自分達「メディアの虚報」がもたらした莫大な国家の損失を追及して欲しいと思っている。
 航空自衛隊も、創設以来「虚報」には泣かされっぱなしであった。現場で実情を知る我々若手幹部は、切歯扼腕したものだったが、当時の「お偉いさん方」の誰一人として「反論」する方はいなかった。
 そこで広報室長に任命された私は、たまたま整備不良が原因で墜落し、520名もの犠牲者を出したJALー123便事故の際、救助活動をした陸上自衛隊航空自衛隊員に対して「言われなき非難」が浴びせられたので、防衛庁始まって以来の「官姓名を名乗った反論」をしたのであった。
“虚報”はその都度徹底的に反論しなければ、“南京大虐殺”や“100人斬り”、そして今回の“従軍慰安婦”問題のように、一人歩きして「歴史教科書入り」する事態になるのである。
 虚報ほど国益に重大な損害を与えるものはない。国民一人ひとりが、「我関せず」であっていいはずはないと思う所以である。