軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

海軍予備学生増加採用の経緯(その1)

 昨日、元海軍飛行予備学生13期のゼロ戦パイロット・小澤甚一郎氏から丁寧な手紙と資料が届いた。84歳におなりになる小澤氏が、蔵書を母校の岩手大工学部に寄贈しようと整理していた時に、海軍飛行予備学生遺族会誌「白鴎通信集刷」の中に寺井義守元海軍中佐の講演記録を見つけた。
「この解説文は昭和53年9月13日に行われた寺井様のご講演を元にした解説文で、予備学生採用の経緯が分かりやすく述べられており、今始めてその詳細を知った次第です」とあったが、以前、特攻隊はなぜ生まれたか、について書いた際、これに私も触れたことがある。
 しかし、小澤氏が送ってくださったコピーにある寺井中佐の文は講演記録なので読みやすいから、ここに掲載してご参考に供したいと思う。
 ちなみに小澤氏とは“同じ戦闘機乗り”として現役時代からのお付き合いで、常に探究心旺盛で几帳面なお人柄を私は心から尊敬している。

(若き日の小澤少尉:前列右から二人目=額の傷は空中戦訓練中に昇降舵のワイヤーが切れて操縦不能になり脱出、落下傘降下した際負傷したもの)


 『飛行予備学生が大量に採用されるに至った経緯について』(元海軍省人事局員・兵54期)寺井義守

 飛行予備学生(生徒)が大量に採用されるに至った経緯については、いつか皆様にお話できる日が来ることを願っておりましたが、今夕その機会を与えられまして本望に存じております。このお話を申し上げるについては、開戦前のアメリカの事情について少しばかり申し述べるのが順序かと思います。
 私は昭和14年、中攻隊に勤務しておりまして、漢口方面から支那奥地の攻撃作戦に従事しておりましたが、ある日突然アメリカ大使館勤務の命を受けまして、翌年の初めにワシントンに赴任いたしました。

(こちら向きの列、左端が寺井補佐官)
 当時のアメリカは飛行機を実戦に使用した経験がなかったためか、近代戦で飛行機がどのような役目を果たすものであるかを熱心に研究していたようでありました。
 私自身もアメリカに着任早々に、海軍作戦部長スターク大将に呼ばれて、直々に私の戦争体験や海軍航空の威力についての質問などがありました。作戦部長が自ら質問に当たるなどのことは異例のことであった由で、これから推察してもアメリカが戦訓の調査に熱心であったことが判ります。また欧州方面では当時アメリカは参戦していませんでしたが、ドイツと英仏の間では戦争が始まっておりました。
 ある日私は十数名の中尉級のアメリカ海軍士官が、イギリスで大使館付きになっているのを知って、これはおかしいと思って調べてみますと、彼らの殆どがパイロットであり、しかも英軍機に乗り込んで戦訓を調査しているということでした。ところが昭和15年春ドイツ陸軍は、空軍との緊密な共同のもとに、それまでは難攻不落と考えられていたかのマジノ要塞線を、いとも簡単に突破して怒涛のようにフランス国内に侵入するにいたりました。これを見てアメリカは、近代戦では航空兵力が圧倒的な威力を発揮するものであることを、今更のように思い知らされたのであります。それから後のアメリカは、狂気のようになって航空軍備の拡充に努力し始めたのであります。すなわちルーズベルト大統領は、まずアメリカの飛行機の生産を年産5万機とする旨を天下に声明しましたが、間もなくこれを年産7万機とし、更にこれを年産12万5千機にまで増産するように声明したのでありました。
 私どもの見るところでは、工業力の優大なアメリカのことであるから、飛行機の増産は何とか間に合うにしても、この増産された飛行機に見合う搭乗員の養成は、超大国アメリカでもなかなか容易ではあるまいと見ておりました。
 ところが私どもの予想に反して、アメリカの陸海軍当局は、これまた大変な熱意で、この難事業に体当たりしていったのであります。彼らは、まず全国の多数の大学で学んでいる青年学徒に目をつけ、彼らを飛行機搭乗員とすることを考えたのでした。
 それで全国の各大学に次々に予備士官訓練団(ROTC:Reserve Officers Training Corps)を設置しこれから搭乗員を養成することにしましたが、これでは間に合わず、ROTCを出ない学生も直接に飛行予備学生(Aviation Cadets)に採用することにしました。
 特に陸軍の如きは大学生だけでは間に合わず、高等学校や中学校卒業生までに手を付けることにしました。また、軍の訓練施設だけでは間に合わず、軍で採用した搭乗員を民間の飛行学校にまでその養成を委託するほどの、あらゆる手段を用いて航空兵力の増勢に熱を入れたのでありました。しかも、これら施策は、アメリカがまだ大東亜戦争に入らない前に行われていたのであります。
 私は大東亜戦争の開始と共に米国に抑留されましたが、その後野村大使らと共に交換船で日本に帰り着いたのは、昭和17年8月のことでありました。私は帰朝後は海軍省人事局員を拝命することになりましたが、そこで私に与えられた仕事の主なものは、航空搭乗員の配員計画でありました。
 職務引継ぎの際に、私の前任者であった河本中佐(兵53期)から、搭乗員の数が極度に不足しておるので、その配員は頭痛の種であるとの申し継ぎがありました」   (続く)