軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

入院日記 地獄篇(その3)

「オイ、看護婦さ〜ん、居ないのか〜、〇☆Ж&・・・」と叫び続けていた隣の老女が急におとなしくなった。家族が面会に来たらしい。
「・・・ちゃん、ここはどこ?」
「○○市の××病院だよ」
「どうして?」
「どうしても何も、ここしか受け入れてくれなかったのだよ」
「どうしたの?」
「母さん、ハブに噛まれて救急車で担ぎこまれたの。覚えてないの?」
「なぜ?」
「あのね、母さんはね、ハブに噛まれて緊急入院したの」
「そうか、救急車で?」
「そうだよ。声が大きいよ、もう静かにしてよ。周りに迷惑だよ」

 息子さんが面会に来たらしい。入院の原因が「ハブに噛まれた」とは奇妙である。東京にハブなんか居る筈がない。マムシか何かにかまれたのだろうが、蛇を「ハブ」というところから見て彼は沖縄出身か?などと考える。
 それにしても毒蛇に噛まれて救急車で運ばれても「たらいまわし」に遭ったようで、この救急指定病院だけが受け入れたらしいから、時たま話題になる「救急医療体制の不備」はどこでも起こっている身近なものらしい。
 面白いもので、息子さんと会話している時の老女の会話は普段の親子の調子のようで、声も穏やかである。きっと1人にされたことが寂しかったのだろう、と思い、“盗み聞き(いやでも聞こえるのだが)”も悪いので持参した本を読むことにした。

軍神・・・近代日本が生んだ[英雄]たちの軌跡」(山室建徳著:中公新書)である。
 既に3分の一は読んでいたのだが、「軍神」と云ういかにも堅い題名とは程遠い、日本近代史、日本民族史ともいえる学術論文に近い内容だと私は感じている。帯にはこうある。
「かって[軍神]と呼ばれる存在があった。彼らは軍国主義的思潮の権化として意図的に生み出されたわけではない。日露戦争における広瀬武夫少佐の例を見ればわかるとおり、戦争によって強まった日本人の一体感の中から、期せずして生み出されたものである。だが、昭和に入ると、日本人が共感できる軍神像は変化し、それは特攻作戦を精神的に支えるものとなる。本書は、軍神を鏡として戦前の日本社会の意識を照射する試みである」

 著者の山室氏は、1954年(昭和29年)東京生まれ、東大大学院卒で帝京大学工学部講師、実に丹念に資料を集め丁寧に分析しているので感心した。特に乃木大将ご夫妻の自決に関する部分の分析は圧巻であった。
「あとがき」にはこうある。爆弾三勇士の1人北川伍長の記念館を尋ねた時のことである。
「・・・御遺族の家への道を探して、近所の店であるいは道行く老年の女性に尋ねても、三勇士の存在すら知られていなかった。三勇士を生んだ地元だけではない。日本全体が[軍神]を忘れているといってよいだろう。[遺烈数十秋既磨]というのが、今日の実情である。
 現代日本の価値観に従えば、軍神は日本を間違った方向に導いた象徴の最たるものなのかもしれない。しかし、私はその後の帰結を知ることの出来る後世の高みから、軍神を裁きたくはなかった。さりとて、そうした戦後の風潮に反発して、彼らを日本人の模範として仰ぎ見たいわけでもない。軍神を論ずることで、何かの教訓を得たいと考えたことは一度もなかった。ただ、良し悪しは別にして、記念館の中に今でもこもっている情熱が、かっては日本中に広がっていたことを、できる限り忠実に跡づけし、それをそのまま読者に伝えたいと思っただけである。このため、新書にしては資料の引用が多く、長々しい記述になってしまった。御海容くだされば幸いである」
 どうしてどうして、見事な記述で、大いに参考になった。皆様にも御一読願いたいと思っている。

 息子さんが帰った後の老女は、いつもの通り大声で叫び独り言を始めた。やはり息子が帰ると寂しくなるのであろう。肉親の存在は偉大である!
「看護婦さ〜ん」といつものように大声で叫び、呼ばれた看護婦が「又〜、点滴はずしちゃだめだって言ったでしょう!あらあら、酸素もはずして・・・顔が紫色になってもいいの?だから御願いだから言うとおりにして頂戴」と云うやり取りが続く。
 これじゃカーテン一枚で仕切られた隣に寝ている私は、ストレスが溜まるばかりで回復するのだろうか?早くここから出してもらわねば・・・
 
 午後10時きっかりに消灯、といっても、ナースステーションからの明かりで、結構室内は明るいのだが・・・。久々に規則正しかった防大時代と自衛隊生活を思い出す。
                                    (続く)


軍神―近代日本が生んだ「英雄」たちの軌跡 (中公新書)

軍神―近代日本が生んだ「英雄」たちの軌跡 (中公新書)