軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

原爆の日を迎える

 昨日はチャンネル桜の収録で澁谷に出た。夏休みとあって、渋谷駅界隈は賑わっていたが、スクランブル交差点を上から見ると、蟻の巣に群がる蟻たちのように見える。
 ところが午後8時過ぎには、一転してまるで舞踏会が終わって出てきたかのような薄手の夜会服?もどきの衣装を纏った若い女性が多かったので度肝を抜かれた! 成人年齢引き下げは大丈夫だろうか?


 収録では、井上キャスターが、月末の選挙を危惧していたので、にわか政治評論家を務めたが、来月の『防衛漫談』は丁度結果が判った頃になる。状況次第では二人とも澁谷警察署に連行され、タクラマカン砂漠の収容所送りになるのかも・・・?


 ところで、昨日紹介した『フランス国営テレビ』番組を、本物の番組だと勘違いされた方が多かったようで、舌足らずな紹介をお詫びしたい。
 フランスの国営テレビが、日本語字幕付きで放映することはまずありえないし、フランス語が出来る方なら一目瞭然だろうから、あくまでもフランスの名を借りた“エスプリ”的「動画」で、ヒトラーの実録ニュース映画に、綾小路きみまろの漫談を貼り付けたものと同類である。

「『よくできた動画です』というコメント付きのブログ・・・」と付け足したのでお分かりいただけると思ったのだが説明不足であった。
 要はこの動画は、日本のメディアでは絶対に報道されない内容を「フランスの番組」に置き換えて紹介した、意見発表だと思ってみてくだされば十分である。
 背景に流された中国人「教授」や「評論家」を活用する日本のテレビ局に、少しは疑問を抱いて欲しかったのである。
 どうして日本のテレビ局が「日本を斬る!」などというニュースもどき番組で、中国人に司会を勤めさせなければならないのか、フランス放送番組を借りて警告している方の発想が新鮮だったからである。

 再度言うが、日本のニュース解説番組?を「葉」とか「朱」とか外国名のキャスターもどき教授がいいたい放題で切りまくり、それに日本人ゲストが嬉しそうに相槌を打つ、そんな番組が堂々と日本国内に流れていることを異常だと思わないのか?というのが私の提言である。
 中国のCCTVで、日本人がキャスターを勤めて、中国共産党を誹謗中傷する番組があったら、是非教えてもらいたいものである。どうしてそこまで日本人がこびへつらう必要があるのか、私にはこれらのTV会社の意図がさっぱりわからない。それはつまり中国の核の存在が無言のうちに作用して怖いからなのであろう。
 彼らの母国が核ミサイルで日本を狙っていなければ、いかに日本のテレビ局だって彼ら出稼ぎ人を採用することはあるまい。日本に滞在する外国人は200万人を越えているが、核を持つインド人、パキスタン人は無害?と思ってか採用していないではないか。南米人だってそうだろう。
 中国人が日本のマスコミ界でこれほどイニシアティブを取っていることに日本人は不信感を抱かないのだろうか?


 政界の裏話も、週刊誌は報じるが全国紙は「気取ってか?」余り伝えない。そんな日本のマスコミ界では表に出ないが日本人の大半が疑問に思っているこの手の闇の世界を面白おかしく「動画」に仕立てた「作品」として評価し、「日本人のひとりでも多くに是非とも目を通してもらい、熟慮して欲しい」と思った次第。作者が右翼か左翼かはこの際関係ない。


 ところで原爆の日が近づいた。今朝の産経一面「くにのあとさき」に湯浅記者が「惜別の歌に託したこと」として書いた中に、作家の門田隆将氏が書いた「康子十九歳、戦禍の日記」の一部を取り上げている。
 戦時中、東京第一陸軍造兵廠に動員された、東京女子高等師範学校(現御茶の水女子大)専攻科3年の粟屋康子さん(当時19歳)の日記を取り上げたものである。中に「特攻に行く人は誇りです。しかし、それを強いるのは国の恥です」と語ったとある。今のインド洋、ソマリア沖に派遣されている海自隊員の姿を彷彿とする。彼らは誇りだが、国は恥じるべきである。

 8月6日、広島に原爆が落とされる。父・粟屋仙吉は広島市長で市長公舎で死んだ。康子は8月10日の日記で「ロシア、帝国に宣戦布告す・・・断乎膺懲あるのみ」と憤っているが、原爆投下では「皆身体のみは息災なるを信ず」と自らを鼓舞しているという。そして彼女は危篤に陥った母の介護で2次被爆する。

「門田氏と康子観を話しながら、何故戦後日本は『原爆の日』に核廃絶を願うだけで終わってしまうのだろうかと思う。二度と粟屋一家のような悲劇を生まないためにどうすべきかを突き詰めない。・・・米国の核は『悪い核』で、北や中国の核は『良い核』であるとの幻想が生き残っているらしい」と湯浅記者は書いたが、米国の核は「日本を守ってくれている良い核」であり、話し合いで解決できる余地を残しているが、北や中国の核は「日本を狙っている怖い核」で、何をするかわからない「物騒な核」だから、触らぬ神にたたりなし、と怯えているだけに過ぎないのである。
 つまり、原爆の日に「平和宣言する」グループは、臆病者の集まりで、何をされるか分からないものに対しては、事前に貢物をして、なんとか許してもらおうという打算が働いているのだろう。
 朝日や毎日新聞などが「中国を刺激する」と判を押したように言うのは、何をされるかわからない不気味な「核」が怖いのであり、「刺激」とは「くわばらくわばら」と、手を合わせる呪文用語なのである。

 今年の6日には、田母神氏が広島で始めて「核」について、所信を述べる。賛否いろいろあるのは当然だが、今まで「封鎖されてきた」核の実態に関する公平な意見を聞いた広島市民の反応が楽しみである。


 蛇足だが、それにしても昨日は、渋谷駅で電車に乗り座席に座ろうとしたら、若い?女性に素早く滑り込まれて危うくその女性のひざの上に座るところだった。唖然として彼女の顔を見たのだが、うつむいて顔を伏せている。日本人じゃない雰囲気だったが、以前新宿駅でもこれと同様な目にあった。
 この時は彼女のひざに腰を下ろしてしまったのだが、驚いて中腰になって後ろを見るといつの間にか女性が据わっていて平然と中国語の新聞を広げ始めた。“初体験”だったから唖然としていると、家内がその女性に注意した。と、突然彼女はさっとホームに降りて行ったのである。

 何を言いたいかというと、十九歳の粟屋康子さんとこれらの現代女性との比較である。何がこれほどの差をつけたのか? やはり教育以外には考えられないが、家内に言わせると「さっと座らない貴方のほうがのろまだ!」という事になる。次回からは、たとえ女性のひざの上に座る事態になっても平然と座ってやろう!と思っている。どんな顔をするか楽しみ?だが、まさか「痴漢!」と叫ばれて、私のほうが逮捕されることはあるまい・・・それとも朝日、毎日から『女性を刺激した元空将』と叩かれるだろうか?
 都心に出かけるたびに、物騒ですれからしの国になりつつあることを痛感し、精神衛生上非常に悪い。


昭和二十年夏、僕は兵士だった

昭和二十年夏、僕は兵士だった

散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道 (新潮文庫)

散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道 (新潮文庫)

世紀のラブレター (新潮新書)

世紀のラブレター (新潮新書)

康子十九歳 戦渦の日記

康子十九歳 戦渦の日記

なぜ君は絶望と闘えたのか

なぜ君は絶望と闘えたのか

裁判官が日本を滅ぼす (新潮文庫)

裁判官が日本を滅ぼす (新潮文庫)

神宮の奇跡

神宮の奇跡