軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

3・11体験記=その6

中国の新体制固めはいよいよ大詰めだが、巨大利権を巡る対立は解消されてはいないようだ。
そんな中、「故劉少奇国家主席の息子で習近平の先輩、かつ幼なじみであるため習近平の「軍師」と言われている劉源上将が「尖閣諸島をめぐる日中間の対立は両国が『メンツ』にこだわっての『意地を張り合い』でしかなく『戦争で解決するような問題ではない』と発言したという(宮崎正弘メルマガ)。
香港の有力紙『星島日報』が3月11日に伝えたものだが、この発言は注目すべきだろう。
宮崎氏のメルマガによれば、「劉源は同紙のインタビューに続けて、『両国は知恵を出し合って問題を解決するべきであり、どうしても解決できないのなら問題を後回しにし、よく話し合うべきだ。人類の中で最も極端で最も暴力的な方法を使うまでもない』とした」とある。


関係部署は裏どりを進めていることだろうが、いずれにせよ制空権を確保するための「自国領土防衛対策」を急ぐべきである。
防衛省の“目玉”は「動的防衛力」の活用にあったはずだ。
下地島に戦闘機部隊の≪移動訓練≫を実行して、制空権の維持と確保を世界に示すべきである。


習近平主席は今、北朝鮮の暴発問題と、ロシア訪問準備で多忙のはず、防衛大綱の改定作業はもちろん大切だが、目の前に迫っている危機対処も怠りなく進めてもらいたい。



さて、3・11体験記を続けよう。彼はいよいよ被災地での思いもかけない出来事にめぐり合うことになる。


「3・11体験記=其の6」

21 仙台方面へ
 車をUターンさせ、車から降りてスコップを積もうとトランクを開けると、外は完全に真っ暗になっていることに気付いた。四方八方真っ暗闇で車のライトだけが唯一の明かりだった。もし、ライトとエンジンを切ったら上下も分からないくらいの暗闇になるのではないかと思ったが、エンジンがかからなくなったり、ライトがつかなくなったりしたらどうしようと不安になり試すことはなかった。
 ガードレールにわずかに残る白い部分に反射して廻りがうっすらと間接照明のように照らされる。その中田んぼで動いているものがある。注視すると見えないが“周辺視”で見ると確かに動いている。
 周辺視を続けるとそれが「人間」であり、近づいてくるのが分かる。田んぼから国道にやっとの思いで上がってくる。
 近づくとそれは両手には大きな袋を持っている全身泥だらけのオバチャンだった。
「どこまで行くんですか」と声をかけると「一中(第1中学校)までです」と息も絶え絶えで答える。「よかったら乗っていきませんか」と声をかけると、自分の風体を見て「車が汚れますから」と遠慮してまた歩き出そうとする。
 ふとガソリンスタンド「一光」の店員を思い出す。そして「わたしもここまでたどり着くのにたくさんの人に助けられました。どうせ車は汚れていますから遠慮せずにどうぞ」と声をかける。
 オバチャンは目に涙をためながら、ありがとうございますを何回も繰り返した。
 移動する車内で話を聞くとオバチャンは鹿妻から避難して来たのだという。避難はしたものの子どもの着替え食べ物は一切無いので一旦鹿妻まで帰り荷物を詰め込みまた歩いてきたのだが、道路はガードレールが流れ止めになって流出物が多く歩ける状態でないのであえて田んぼの中を歩いてきたのだという。
 鹿妻は、オバチャンを車に乗せたところから2km以上離れている。この距離を大きな荷物を抱え泥だらけになって子どものために歩いてきたことに母親のたくましさとありがたさを痛感した。一中でオバチャンを下ろすと何度もお礼を言われた。


 さあこれから姪の家までと進路をとる。葦の大群が絶対いないような、壊れそうな橋のないような経路をシミュレーションする。
 山根伝いに進み鳴瀬川を渡る。鳴瀬川にかかる鳴瀬大橋は平成15年宮城県中部地震により崩落した通称小野橋の代わりに掛け替えられた最新の橋であるから通行止めの措置はとられていない。高城川を渡る橋も大丈夫であった。暗闇の中の道路際でヒッチハイクする人がたくさんいたが私とは方向が逆で乗せることができなかった。仙台市内に入っても電力は回復している気配はなく信号も含め真っ暗である。さすがは仙台で交通量も多いが横道から無理に入ってくる車とか、事故を起こしている車は一台もなかった。

≪「警察官の本文」山野肆朗著:総和社から≫



22 姪宅到着
 道路事情は悪くはなく順調に姪の家に到着した。車内では靴を脱いでいたので再び靴に足を入れるとチョコレートシェークの冷たさが全身に響き渡る。
 下半身についた泥は乾いていたが、車から降りると一歩動かすたびにひび割れして土が落ちる。モモを連れて玄関に向かう。
 姪の家は新築したばかりで、はやりのオール電化住宅であるから、電気が無ければピンポンもならない。ノックを何度してもだれも出てこない。普通玄関の明かりがついたりして気配を感じるものだが何の反応もない。
 しばらくして突然ドアが開いて懐中電灯を持った姉が出てきた。姪の子どもが乳幼児でやっと寝たところなので大きな返事もできなかったという。しかし返事もなく玄関の明かりも点かずして玄関の扉が開くことがこれほど異様なものかと思った。


 長女のことを訪ねると元気だというが、昨日から何も食べず私たちの安否を気遣っていたという。甥にお礼を言おうと思ったが別件で救助に出かけたという。
「お父さん来たよ」と呼ぶ声に部屋から出てきた長女は姪のジャージを着ていた。泣きはらした目は“私の顔を素通りして”見覚えのあるモモの「通院カゴ」を見つけるなり「モモ!モモ!モモ!」と泣きながらモモをカゴから出して撫でている。
「モモ!モモ!」と更に泣き続ける長女を見て姉も姪ももらい泣きをする。「モモじゃなくて、お父さ〜ん」だろうが!、と強くいいたかったが呑みこんだ。
 姉曰く、「今大切なのは家族が一緒にいることだと思う。」
 しかし、現地の様子を考えると長女をこのままここで預かってもらう方が良策ではないかと葛藤したが、とりあえず家族そろってから考えることにして一緒に現地に戻ることにした。
 すでに21時を回っていたが眠気は全くなかった。


23 音楽室
 来た道を順調に戻った。車内で地震が起きたときの様子、コンビナートが爆発したこと、津波が学校まで来たこと、甥が不審者みたいだったこと、家族を心配していたことなど、とりとめのない話を延々としていた。
 しかし、津波の被害が見えてくると長女は無口になった。自宅近くになり家具や車が散乱し、車が助けを求めて電柱に上るような光景を見て「こんな町いやだ」と小さくいってまた泣き出した。
 ここに連れてくるのはまだ早かったかと後悔した。夕方止めた駐車場に車を止めた。モモを連れてきたが餌やトイレが無いことが懸案だった。長女に車内に残るようにいって音楽CDをかけ、私だけ餌と猫用トイレを自宅まで取りに帰った。
 自宅を長女に見せるのはまだ早いと思ったからである。チョコレートシェークの冷たさは更に増している。懐中電灯は小さなペンライト一本である。自宅に戻り下駄箱を踏みつけ家具を蹴飛ばし餌を探す。 封を切っていない餌と砂は偶然にも当初想像していたところにあった。猫用トイレは最後まで水に浮いていたのだろう、家具の上にちょこんと乗っていた。長女が不安がると思い急いで帰る。
 足の冷たさは極まって感覚がない。しかし途中猫用トイレが異様に重く手を替えて持つ。車が見える頃になって猫用トイレの中を見ると、なんと猫砂がいっぱいの水を吸って、更に水も残っていた。
 これを捨てるとものすごく軽くなった! 肩が抜けるかと思うほどの重さに疑問をもって早く気づけば良かったとがっかりする。


 モモを車に残し、姉から借りた長靴を長女に履かせ音楽室を目指す。相変わらず私の靴はチョコレートシェークの中であるが長女の長靴は長いタイプでギリギリで泥の侵入を防ぐことができた。校庭一面泥が覆っていて普通に歩けるところはない。それどころかバックネットやフェンスが流れ止めになって車や家具、瓦礫が流れ着いている。 泥の中に何が埋まっているか分からない。右足に重心を残したまま左足を前に出し固い地面に着けば重心を移し右足を前に出す。この繰り返しで一歩一歩進んでいく。明かりは小さなペンライト一つでLEDタイプのため光か拡散し遠くを照らし出すことはできない。
 東側の昇降口を目指し、横倒しになり腹をこちらに向けている車と体育館の間をすり抜けてゆっくり進む。長女は「怖い怖い」と泣くが置いていくわけにも行かず右腕を抱えるようにして連れて行く。


 昇降口の扉は一枚も残っていない。ガラスは割れて泥から鋭い牙のように飛び出しライトの光を鈍く跳ね返す。まさに薄氷を踏む思いで校舎にはいり廊下を見通すと泥で埋め尽くされ、本や書類が無数に広がる。教室のドアが押し倒され階段までの踏み板となりたくさんの足跡が付いている。「もう少しだ」と長女を励まし階段を上る。
 避難した人たちの足跡の泥が続き2階に上っても泥の量は劇的には減っていなかった。音楽室のある3階まであがり廊下を突き当たりまで進もうとするが廊下の両側に“障害物”がたくさん並んでいる。
 障害物が“人間”であることにしばらく気付くことができなかった。廊下の壁に沿って段ボールにくるまり寝ている者、ゴザに正座したまま横に倒れて動かないもの、子供用の椅子に座って毛布をかぶり漂流物であろうエアキャップ(通称:プチプチ)を足に巻き寒さをしのぐ者などがたくさんいてまっすぐに歩くことはできなかった。長女は相変わらず「怖い怖い」を繰り返す。


 教室の入口には大きな紙が貼ってあり、その教室に入った人が名前を書くようになっていた。23時頃やっと音楽室に到着する。音楽室前の大きな紙には始め行政区ごときれいに書いてあったが後半は殴り書き状態であった。
 家族や知り合いの関係で一旦違う部屋に移ったのだろうか名前を二本線で消し、再度記入している人もある。妻と次女の名前を探していると長女が「おかあさんだ!」と紙を指さす。
 見ると殴り書きではないしっかりた字で書いてあるため少しは安心する。音楽室を開けると真っ暗で静まりかえっている。足の踏み場もない程に老若男女が横たわっている。私の足は泥だらけなので長女に妻と次女を探しに行かせる。直接顔をライトで照らさないように天井を照らし間接光で探させるが何百人もいるし大きな声で呼べる状況でもない。
「誰かお探しですか」と聞かれるのを心待ちにするが全員が寝静まっている。断念して帰ってきた長女に「帰ろう」と促す。ここまで来て母親と妹に会えない長女の無念さはいかばかりかと感じたが「仕方がない」と付け加えて音楽室を後にする。
 来た経路を戻るより逆の西側に向かって進んだ方が校庭を横切る距離が短いので西側に経路を変更する。西側の昇降口も東口と同様に破壊されているし泥の量も変わらない。冷たい泥の中を来たときの要領で進む。西側の昇降口のそばには別棟の新校舎への屋根付きの渡り廊下が設置されている。
 この渡り廊下の中央が通路になっていてここを通り抜ければ外に出ることができる。そうすれば瓦礫の量は格段に減り歩きやすくなるだろうと考えた。しかし渡り廊下中央の通路には車が折り重なっていた。まるで車が自ら意志を持ち我先に通路を通ろうとして折り重なり身動きできなくなったみたいであった。
 暗闇の中で長女を連れて車をよじ登るのは危険と判断し、来た経路を戻ることにした。また西側の昇降口から校舎内に入り東口の昇降口に向かう。ホラー映画さながらの光景の中をまた進まなければならない。長女を「がんばれ、がんばれ」と励ましながら東口の昇降口を通り校庭を進む。車に戻ると体中が凍り付きそうな寒さであることに気が付いた。手が震えて鍵をさすこともできずもどかしさが先に立った。何とかエンジンをかけ暖を取る。
「お母さんの名前があったから大丈夫だ」と長女にいい、長女も母親のしっかりとした筆跡に安心しているようであった。


24 再び仙台へ
 これからどうすればいいのか見当も付かなかったがとりあえず姪の家に戻ることにした。夕方姪の家に向かい夜に帰ってきた経路を三度通る。ガソリンを満タンにしてくれた一光店員に感謝しつつ姪の家を目指す。
 姪の家に着いたのは13日になっていた。ドアをノックするが先ほどと同じく何の反応もない。何度か繰り返すが今回は何の変化もなかった。真夜中に大声を出すわけにもいかず、乳幼児も気にかかるので姪の家に入るのは断念した。姪の家の前に車を止めて一光のガソリンスタンドで一夜を明かした要領で長女と過ごすことにしたが、何度もエンジンをかけたり止めたりするとただでせさえ閑静な住宅地に音が響くことに気づいた。
 朝になれば音楽室も明るくなり妻や次女を捜すことができる。どうせ暖を取るためにエンジンをかけるなら自宅に向かって走る方が賢明だと思い夜中の2時過ぎに再び我が家に出発することとした。
 車内が十分に暖まったら寝袋とレジャーシートをかぶり仮眠する。寒くなったらまた走り出す、を繰り返す。5時近くにやっと自宅近郊の郵便局に到着し仮眠をとる。明るくなるのを待ち音楽室を目指す。


25 再会
 明るくなった自宅周辺は、昨夜車のライトで照らし出されたより更に悲惨な状況であった。海岸地域の家々が破壊されその残骸が南側道路にうずたかく漂着している。自宅そばには港入口の海上にある巨大な航路標識が横たわっている。
 まさに絶望的な景色であったが違うところは人々が泥のかき出し、使用不能の電化製品、家具を運び出し復旧への槌音がすでに始まっていることだった。
 昨夜の要領で東側昇降口に接近しようと校庭に入るとすでに人が通れるくらいの通路が完成していた。
 昇降口のガラスは撤去され安心して校舎に入ることができた。ホラー映画のような雰囲気はなく人々の話し声が飛び交っている。そんな中、3階突き当たりの音楽室を目指す。
 

 2階まできたとき偶然に妻が出てきた。音楽室にいるものだと思い込んでいて、探す態勢になかったため完全に不意をつかれた。
 妻は長女を抱き留め泣いていた。「これで泣くのは3回目か」などと冷めた目で見てしまう。音楽室では次女が友達と遊んでいた。
 子どもは子どもなりにたくましく難局を乗り越えようとしている。妻はモモがいなくなったことでショックを受けていたが長女から無事であることを聞かされ見る見る笑顔になっていった。
 冷めた目で見ていた私が感謝と感動がわき上がって来るのはずいぶん後になってからであった…。(続く)



≪3・11時の状況図=インターネットから≫

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