軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

3・11体験記=最終回

「根競べだった?」第266代ローマ法王選挙は、アルゼンチン出身のベルゴリオ枢機卿が選ばれ、「法王はイタリアや欧州出身者から選ぶという長年の伝統を破り世界最大のカトリック人口を誇る中南米から初選出。『欧州中心主義が崩壊し、教会に新たな風が吹いた』(バチカン外交筋)と評価する声が上がっている…」と報じられた。


お隣の大陸・深セン市では、全人代開催中であるにもかかわらず、大規模な汚泥処理工場の排気汚染に抗議する数千人の地元住民が参加し、人口密集地に建つ同工場の排気がもたらす悪臭などに猛反発するデモが起きたという。(【大紀元日本3月13日】)


≪12日、深セン市宝安区松岡の役所前に集まった抗議者。汚泥処理工場の悪臭排気に反発し工場の移転を要求(ネット写真)≫


ところで、相変わらず諜報活動を得意とする中国は、活発な対外情報活動を継続しているが、昭和初期と同様、米国のジャーナリストらを“たらしこんで”いるようで、今朝の【櫻井よしこ 安倍首相に申す】欄の「情報戦 日本に厚い壁」は示唆に富んでいる。


≪日本は国際社会の会津藩になるのか。日本の行く手には、中国などの巧みな情報戦で築かれつつある厚い壁がある。汚名を返上しようとする度、壁が立ちはだかり日本は21世紀の国際社会で孤立させられるのか。こんな不安を拭い切れない。

 日本が自主独立国家の道を目指して憲法改正を進め、歴史問題の誤解を正そうとするとき、同盟国アメリカにおいてさえ必ずしも歓迎されないのが現実だ。コロンビア大学教授の知日派、ジェラルド・カーチス氏は『フォーリン・アフェアーズ』3・4月号で、政権を奪還した自民党を「右傾化する政府」と書いた。(以下略)≫


外交とはシャンパングラス片手に≪ハウドウーユードウー…≫と華やかに語いあうもの…と勘違いしている向きがある日本人への警告だろう。
同盟国・米国にはこんな「知日派???」がぞろぞろいることを忘れてはならない。「アン・コールターの『リベラルたちの背信=アメリカを誤らせた民主党の60年』」を読めば、この国のアジアに対する曲解がよくわかる。
米国人が中国人に”好意”を寄せるのは、中国の宣伝活動のたまものなのだ!
お蔭で日本は、戦ってはならない相手に『奇襲攻撃』をかけるという愚策をしてしまった。
21世紀もそうであってはならない!


今日は「3・11体験記」の最終回である。


26 被災者として
私も“被災者”、身を寄せるところがなく音楽室にご厄介になることになったが、近隣の復興に協力しつつ、自宅の復興を目指そうと角スコップ1本で泥のかき出しを手伝う。
泥は相も変わらずチョコレートシェーク状態で軍手で泥の中に手を入れると痛みに似た冷たさが走り、体中が痺れたようになって身動きできなくなる。特に朝方はシャーベット状でもっとも過酷であった。
近所の知り合いがビニール手袋を分けてくれた。通常なら感じないであろうがものすごく暖かく、泥の中に手を入れても痺れないことに感謝した。


近所の先輩にあたる元自衛官から、側溝の排水溝の瓦礫を出すから手伝ってくれといわれその現場に向かった。
そこは各家庭の雨水排水を集めた幅1mくらいの側溝が交差するところであった。どこが排水溝か分からないくらい瓦礫が堆積していたが力を合わせることで瓦礫は案外早く撤去できた。
その下にある泥をかき出さなければ水は流れない。
「どうせやってもすぐ詰まるよ」という冷ややかな外野の“部外者たち”をよそに作業を続けた。
泥は柔らかくスコップで一回すくうとその分廻りから泥が流れ込む。この繰り返しであった。
   

スコップは側溝のコンクリートを滑り簡単に泥の山に刺さっていくが、急にスコップが鈍い反動を返す。
よく見ると布が見えたので毛布かと思いとりあえず手で引っ張ってみると重いので、元自衛官の先輩と二人で引っ張った。布は手応えがあるがゆっくりとしか出てこない。
突然軽くなって尻餅を着きそうになったので、体勢を立て直し引っ張り出すと、それは何と泥にまみれたご遺体であった。
体は小さく子どもであることがすぐ分かった。「人形であってほしい」と思ったが紛れもなく女の子で、私が握っていたのは女の子のオーバーであった。
ただ呆然としている私をよそに、元自衛官が近所からきれいな毛布を持ってきて掛け、避難所となっている小学校の市役所職員に連絡してくれた。茶色一色の“景色”の中に一カ所だけきれいな毛布が置いてあるのは異様であった。
この冷たく臭い泥にまみれて死んでいった女の子を思うと胸が痛み息が詰まりそうになる。


音楽室に帰り自分の家族が無事であることに涙を流した。
先ほどのご遺体が自分の娘とだぶって見えてものすごく不安になる。近所に松島基地に勤務する自衛官の家族がいたが、夫人は夫とはまだ連絡は取れないといい、「三沢からならすぐ帰って来れるのにね」なんて嫌みにも似た言葉をかけられた。
家族に連絡がないということは当の自衛官本人も家族の安否が分からないまま救援作業を続けていることになる。


電源の復旧はまだまだかかりそうでテレビを見ることもできなかったから、情報収集はラジオによるものに限られる。
被害の甚大さは日に日に大きくなり、やがて自衛隊災害派遣のニュースも頻繁に流れるようになる。
そのなかには「救助活動を続ける自衛官の中には自宅が被災した隊員もいるそうです」とか「肉親が行方不明のまま捜索活動に携わっています」などというニュースが数多く含まれていた。
しかしこれは「詭弁である」というのが私の結論である。


私は国に対し「危険を顧みず…」という宣誓をしている。死への覚悟があるか、といわれれば揺るぎなく「はい」とは答えらないが、私の死によって戦争や紛争を防げなくても、私の死によって家族の平穏無事が1日でも延びるのであれば犬死にであっても意義があると解釈している。
しかし私の家族は「私たち家族の代わりに他の家族を救って下さい」と国民に対して宣誓はしていない。
もし、「自衛官の家族であるならそれが当然だ」というのであれば家族にも宣誓が必要であるし、入隊時には親の、結婚時は相手の審査、宣誓も必要である。
私の家族は、私ではなく地元管轄の自衛官が救出に向かうため本務に戻れ、といわれてもあの泥の中に埋まった女の子と自分の子とだぶってしまい、他の隊員の足を引っ張ってしまうに違いない。
「弱い味方は強い敵より怖い」といわれる組織の中ではそれは致命的である。


27 自衛官として
松島基地勤務時に経験した平成15年宮城県中部地震、平成20年宮城内陸地震のときは指揮所が立ち上がり、全員が拘束された。
電話も繋がらない状態で家族の安否を確認するすべはなかった。確認出来たのは、何時間も拘束された上、直属の上司から「ご家族からまだ連絡ありませんか?」という、無事であることが前提のパッシブなものであった。
他の職場では家族の安全を確認した後、直ちに戻ってこい、と「太宰治」的対処をとってくれているところもあった。
自分の家族が無事で「後を頼む」と伝えることができれば、その後長期間不在にして任務に全うできる。我々が職務を完遂できる底辺には家族が無事であることが前提である。
これは自分の家族が被災した場合の極論であり、確率的には低くほとんどの隊員はこのような葛藤に苛まれることはない。それよりも災害、紛争、事故などに常に即した態勢をとることの方が重要である。


これからは、私は数日分の着替え、洗面具、タオル、飲料水、非常用糧食、ライトなどを常に持ち出せる状態にして家、職場に常備しておくことにした。
以前から準備はしていたが、第2次要員が派遣されるまで個人で持ちこたえられる装具に更新した。神頼みだけでは人を救うことはできないが装具の中に「線香と数珠」も追加した。


今回の震災では私は三沢基地での任務から逃げたといえる。
今度同様規模の災害が発生した場合には、私は帰ってこないことを妻子に言い聞かせた。自分の身は自分で守れと。
次に起きるのは災害ではなく紛争かもしれないが、そのときは第1次で出発できるよう、改めて装備と身体と意識を高める決意をした。
(了)

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