軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

森羅万象には「人類の理解を拒む領域がある」

先日のブログに、家内の一周忌で東北地方を旅した体験記を書いたが、一読者から「死んでしまえばすべて終わりだ」という厳しい感想が届いた。

 

「私は死んだら敗けと考えています。人間、死んだら終わりだと考えます。」というのだが、確かに「肉体が破壊されて、消滅し、土に戻るのだから」、それを「終わりだ」といえるだろう。

しかし、それだけではないような気がする。古来「高僧が説いたように」魂はどうなるのだろう?と思うのである。

魂…というか「精神」というか、肉体以外にある「何か」である。一般的に近代科学者は否定するようだが、その彼らにしても、どうしても「方程式」の合致しないものはあるだろう。すべて「科学」で割り切れないから、この世には摩訶不思議な現象もあり、解明できないものもあり、だから人間はそれに「挑戦」し続けるのだと思う。

 

「気の迷いや妄想。人間ですから誰にも在ります。」といわれるものの、本当に“それが”「気の迷い」なのか、「誰にでもあるのか」は証明できない。だからこの世は不思議でもあり、面白い?のだと思う。

 

確かに今回の私の“個人的”な体験は、「気の迷い」かもしれないし、「誰だって体験できるもの」かもしれないが、それにしてはあまりにも“偶然”が重なったと思う。

さらにエリザベス女王逝去の際、ロンドンのパッキンガム宮殿に二重の虹がかかった!と世界が驚いたが、実は昨年秋の「納骨の義」が終わって、雨が上がった時にお墓に虹がかかっていたのを、息子がスマホで撮影していた。「ラスト・ドライブ」を見終わった後である。

そして今回のロンドンでの現象で思い出したのだが、これも「偶然だった」のかもしれないが、では「偶然と必然」はどう違うのか?

この世に「偶然はない」という高僧もいる。

 

しかし、確かに「死んでしまえばそれっきり」というのは少し寂しい。「生きていてほしい」という思いが高じて、気に迷いが生じているのかもしれないが、私には「肉体」と「魂(精神)」の分離=死ではないか?と思われる。肉体は滅びても、魂は依然として残っているのだ、と思いたい。靖国神社には、あまたの霊魂が”漂って”いる。

まだ俄かには死なないようだから、改めて考察してみたいと思っているが・・・

 

ところで我が国には、かってない猛烈な勢いの台風が接近していて、今夜にも九州に上陸するらしい。その上北や南で地震が続いている。わが国土は天から見ると、相当穢れているのだろう。洗い浄めて欲しいものだが・・・

それにしても60~70代の男どもの乱れ方は尋常じゃないように思う。「呪われたオリンピック」どころか、「穢れ切ったオリンピック」になり下がったようだが、それにしてもそんなことが許されるとは、お天道様はどうなっているのだろう?と怪訝に思う。

それも当事者は“お金持ち”で何不自由ない方々ばかりなのには驚く以外にない!そんなに「汚れきった金銭」を地獄に持ち込まないと気が済まないのだろうか?いやはや呆れてものも言えない。

9月4日の産経抄氏は、「今この惑星で起きていること」という著書をあげて、「四季の巡り」は、わが国の情味豊かな言葉をはぐくんできたが、今我々が直面しているのは「風土の危機」「心の危機」なのかもしれない」と指摘した。

 

私にとっては、そんな「細やかな」危機ではないと思っている。これも「気の迷い」であってほしいものだが、森羅万象には「人類の理解を拒む領域がある」らしいから希望的観測はできないだろうが・・・