軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

コメントにお答えして・パイロットの犠牲精神

ブログの事が後輩達にも知れたらしく,激励が届くので汗顔の極みである.しかもランキングも4位になり,『戦友・西村氏』にあと三歩(かなり距離がある三歩だが)に迫った!
ところで,息子に勧められて服部先輩の飛行体験を報告したところ,読者がかなり御興味をお持ちである事が分かった.その中の『3等水兵』さんから,1999年11月22日に埼玉県入間基地に着陸進入中であったT−33が故障して墜落した件について教えて欲しい,とあった.
T−33:648号機は,米軍から供与された極めて古い機体であった.国産機が200番台であったことからも分かるであろう.この日,年間飛行を義務付けられている中川2佐(当時)は、総隊飛行隊所属の門屋3佐と同乗して飛行訓練を実施して帰投中であったが,着陸進入中にエンジンが故障した.この機体はエンジンが停止すると操縦系統の油圧も低下して,相当な腕力がないと操縦できなくなるのだが,二人は眼下に広がる人家を避けようとして,恐らく二人で力を合わせて操縦桿を操作し,高度が低下する中懸命に人家を避けて入間川方向へもっていこうとした,と考えられる.
何とか被害が回避できると思われるところまで来たので、運を天に任せて脱出レバーを引いたが,操縦不能のため機体が高圧線に接触し,しかも高度が極端に低下していたので,当然落下傘は開かなかったから、機体から放出された二人はそのまま大地に激突して殉職したのであった.
事故発生を聞いた私は,二人に『良くやった』と感謝して手を合わせた.航空自衛隊の飛行基地を見れば明らかだが,周辺がどんどん開発され,飛行経路上に家屋が密集しているところが多い.
特に入間は激しく,私も現役時代に,万一エンジンが停止したらどこの空き地に突っ込もうか?と考えて飛行していたものである.
浜松での操縦教育中は,毎朝『緊急手順教育』で『離陸直後にエンジンが停止した!どうする!!』と学生に質問する.学生は「再スタート手順」を鸚鵡返しに答えるが,『高度がない!,人家が迫っている!』と教官が迫る.そして他の教官が『脱出!脱出だろう?』と誘いをかける.そこで学生が『ハイ!脱出します』と答え様ものなら,『貴様!市民を殺すのか!生き恥をさらす気か!』と罵声が飛び『空き地に突っ込め!浜松球場があるだろうが』と脅迫する.学生は『ハイ,球場に突っ込みます』と答えざるを得ない.すると教官は『そうだ,始めからそう答えろ.出来たら垂直に突っ込め.そうすれば地上の被害は軽減される』と叫ぶ.そこで真面目な学生は『ハイ,垂直に突っ込みます!』と答える.これが毎朝の恒例行事であった.
勿論,西向きに離陸する時は浜名湖まで何とか持っていき脱出せよ.東向きの時は天竜川まで粘って脱出するように指導していた.その結果『アユつり人や、牛を放牧中の何人かが巻き込まれたとしても、それは防衛庁長官と空幕長が謝ってくれるから何とか生きて帰って来い』と教えられ、又私もそう教えてきた。だから中川,門屋の二人は教官の言い付けを守った,と思ったからである.
残された御家族にとっては,かけがえのない人を失ったのだから,我々パイロットの『独り善がり』な感情が通用するとは決して思わない.しかし『自衛官の家族らしく』粛々とその運命を受け止めてくださっていると理解している.
しかしこの時はそんな我々の気持ちを『逆なで』するように,80万世帯が停電した!とか,スーパーのアイスクリームが溶ける被害が出た,と報道されたので,私は個人的に怒り心頭に発した。だが,現役時代に常々『我々自衛官は国民(本当はメディアだが)から差別されても,国民を差別してはならない.災害派遣で救出に向かった時に,その対象が例えXX党党首であったとしても差別することなく救助せよ。それが自衛官魂だ!』と言いつづけてきたので,じっと怒りを飲み込んだ.
ところが救いの神はいるもので狭山高校の小川先生が,我々に代わってこの二人に感謝する一文を書いて下さったので,三途の川の向こう岸で二人も感謝したに違いない,と思っている.
これに先立つ1972年11月4日,ブルーインパルス機のF−86Fが同様にエンジンが停止して入間川に墜落したが,操縦者・金子1尉も同様な行動をとって間一髪生還した.
この時は金子1尉の落ち着いた行動を赤旗新聞までもが「誉めてくれた」のであったが,長くなったので次回の『お楽しみ』という事にする.