軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

インドネシア帰還兵の独り言 その3

  • 1953年、ジャワ派遣軍の主席通訳だった三好俊吉郎は、我々若い通訳を集めて「マシュミ党総裁のM・ナチール師は聖人だ。勉強しなくてはならない。スカルノ大統領とハッタ副大統領も、サウジアラビアのファイサル王も、カラチのイナムラ・ハーン師も、ナチール師を尊敬している。」と言われたので、我々(稲嶺一郎、宮元参謀、金子智一、中島〈筆者〉等)は、インドネシアに行くと毎朝ナチール邸を訪問した。ナチール師は、次のように語った。

「日本とインドネシアの連帯を、米中ソの鑑にしたい。日本軍の最大の貢献は、第一がPETA(義勇軍)の創設。第二がイスラム近代化である。親友のカズマン師は、ジャカルタ地区の司令官になったら、毎日騎馬でジャカルタを巡察している。私は目が悪いので入隊できなかった。ハッタ博士(後に副大統領)は、今村第16軍司令官に「イスラム大学の創設」を懇願したら許可が出た。ハッタ博士は経営を私に任せた」

  • 「私(ナチール師)が25歳の時のことである。バンドンのオランダ人教会に行ったら「イスラムを退治せよ」と「十字軍の奮戦を熱心に説明している」ので驚いた。ガンジーとハッタは親友で植民地主義打倒を、非暴力抵抗運動で進めていた。我々マシュミ党は〈軍隊を持つべきだ〉と決めた」
  • スカルノがフロレンス島のエンデに流刑になったとき、私(ナチール師)はレターで宗教論争をしたが、この論争はジャカルタ、カイロを経てメッカの新聞に掲載された。スカルノは「独立のためには宗教も使うという戦略」だから承認できなかった。1950年、私が首相になったとき、スカルノ大統領は笑みを浮かべて〈もう一度論争をやるか〉と言われたので〈世界のイスラム教徒の為、やりましょう〉と答えたことがある。」
  • 稲嶺一郎と金子智一とオマール・トシン博士(早大出身。留学生会の会長)が、岸先生と福田先生と大平先生の希望を伝えるために、ナチール宅に行ったら「本日はタナアバンのマスジスト(イスラム寺院)にいます」と言われた。タナアバンに行ったら、マスジストは貧民街のど真ん中にあった。賀川豊彦師の神戸時代と同じロケーションである。タナアバンは、貧民街だから下級労働者の娼婦はタバコ一箱であった。
  • ナチール先生は貧民の服装で貧民の話を聞いていた。我々は「聖者(神の使途)を見てショックを受けた。タイのプミポン王も貧民と話をする日があるし、サウジアラビアのファイザル王は、貧民の話を聞く日を金曜日と決めていた。

私は昭和24年から新橋に住んでいるが、住民は「河上丈太郎弁護士(後に社会党の党首)はキリスト」と見ていた。
現在、与野党の政治家に「尊いものを感じない。やり手政治家ばかり」の感じがする。しかし、今の日本は、賢明な政治家、聖なる政治家、勇気ある政治家が必要である。

(7月25日 曇り 5時 「遠い昔、ジャングルで極楽鳥を見たりけり」)

  • 帰還兵・中島氏は,先日の私の講演会にわざわざ来てくださった.「ブログで時々紹介しています」と言ったら,「ではどんどん記録を送りましょう」と言われた.

かっての大戦の証言は貴重だから,機会を見つけて紹介したい.

このところ9月の講演会準備や,もろもろで少々時間がない.明日から一泊で松島基地に出向き,航空祭に参加してくる.昔の部下達や≪百姓サン≫達に会うのが楽しみ,来週またご報告したい。