軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

帝国陸軍は強かった!

 夏日だった昨日と打って変わって、今日は一気に冬の気配、体がついていかない。
 バラの手入れに夢中な家内も、このところ雨を眺めてため息ばかり。「鳩山政権になってから天気もおかしい・・・」といわんばかりである。確かに政権交代と“連動している”様な気もする。


 もともとわが国の「天気」の意味には、天候を気にする農耕民族らしく「天子様のご機嫌(気分)」という意味もあったようで、「今日はお天気もよろしく何よりなことで・・・」などという挨拶に用いられた、と何かで読んだ気がする。
 勿論金まみれの現代政治屋に「天子様」が当てはまるわけはないが、こうも異常気象が続くと「異常首相」のせいにしたくもなる。


 たまたまケーブルTVの映画番組でメル・ギブソン主演のベトナム戦争映画『ワンス・アンド・フォーエバー』をやっていたので久しぶりに見返したのだが、今整理中の原稿『アジアの戦争』を裏付ける場面が次々に出てきて、ツイ最後まで見てしまった。
 偵察行動に出た部隊が北ベトナム軍の大攻撃にあい、全滅寸前に追い込まれるが、かろうじて空軍の掩護で危機を脱出する。それを肉弾戦に巻き込まれた戦場カメラマンが克明に記録する。多分多くの方がご覧になった映画だろうと思う。以前は気がつかなかったのだが、改めてみて見ると、北ベトナム軍の戦い方は「旧帝国陸軍」の戦い方にそっくりであることに気がつく。


 実は私は今、大東亜戦争に関する文献を乱読し、毎週平河総研のメルマガに連載しているのだが、それに加えて昨年10月末に講談社から出版した「金正日は日本人だった」(本来は「半島秘話」の予定だった・・・)をまとめていて、旧帝国陸軍小野田少尉らを“残置諜者”としてアジア各地に残置し復讐戦に備えていたことを知り、改めて8月15日以後の「アジアのその後の戦い」を分析している。
 そして、終戦時点で岡村大将率いるシナ派遣軍100万は依然として健在だったし、インドネシアなどは「遊軍化」して本格的戦争はしていなかった。インドシナ半島ベトナム)では、ホーチミンが戻ってきたフランス軍と戦ってこれを駆逐し、その後に入ってきた米軍と激烈な『ベトナム戦争』をしてついに追い出したことは周知のとおりである。

 そしてその裏には、多くの旧帝国陸軍将兵が祖国に復員することなく、彼らの「独立戦争」を支援して、アジア各地で終戦後も戦闘を継続して散っていった。シナ大陸の国共内戦もそうである。以前書いたように今の中国人民共和国空軍の基礎を作ったのも日本陸軍であった。その伝統からか?いまだに北京政府は上海万博の「テーマソング」や「中国館」で、日本の指導に頼っているじゃないか!


 冗談はさておき、私は「大東亜戦争終戦後も形を変えてアジア各地で継続」され、1975年4月30日に南ベトナム政権が無条件降伏し“解放軍”がサイゴンに無血入城した時点で、「帝国陸軍勝利のうちに終結した」との仮説を裏付けている様に感じたのである。
 それはいみじくも戦後日本政府が、占領軍の指示で「大東亜戦争」ではなく「太平洋戦争」と呼称させられたことからも伺える。米国にとって日本との戦いは「太平洋戦線」だったのだから・・・
 しかし大日本帝国は「大東亜戦争」と呼称した。「太平洋」で負けたのは海軍であり、陸を戦場とする陸軍は負けていない!と感じていたとしてもおかしくはなかろう。
 「国の支え」という関西防衛を支える会の機関紙で、元シナ派遣軍の歩兵部隊で5年戦い、朝鮮の釜山から、シンガポールまでの鉄道輸送を確保せんとする雄大大陸打通作戦に参加して負傷し、帰国後は産経新聞論説委員や大学教授を務めた92歳の瀬川保氏は、この作戦では10万人不足のままで戦ったが、昭和20年4月、米軍に訓練された米軍完全装備のシナ軍に米軍戦闘機と爆撃機が参加した芷江攻略戦で、制空権を失って退却したのが唯一の敗戦で、総合的に見て「55戦51勝1敗3引き分けだ」と分析している。
 映画のボブ・ギブソン部隊も、空軍の掩護で死地を脱却することが出来たが、戦場における航空優勢の大切さは、昔も今も変わらない。

 そんな前提で原稿をまとめているのだが、この映画の各所にそれを裏付けるシーンが出てきたので、忘れないうちに記録しておこうと思い、ついつい今日もブログを書くことにした。


 メル・ギブソン扮する“中佐の部隊”に襲い掛かる北ベトナム軍は、ラッパや笛で軍を動かし、夜襲と突撃を得意とする。銃剣をつけて“中佐”に突撃し、あえなく仕留められた北ベトナムのインテリ兵に、帝国陸軍の「万歳突撃」を彷彿とさせられる。米軍はこれが恐怖だった。そして北ベトナム軍の指揮所は、ジャングル内に張り巡らされた地下壕だが、これは言うまでもなく映画「硫黄島・・・」にも出てきた帝国陸軍の最も得意とする戦闘方式であった。


 ベトナムには、井川省少佐以下800人の日本軍将兵が残留し軍事教育と訓練を施した事実がある。
 井川少佐は二・二六事件連座者が六人もいたことで知られる陸士第四七期の卒業生で、私が外務省出向時代にソ連の情報関連でご指導いただいた宍倉寿郎氏や根来元空将は井川少佐と同期生である。
 井川少佐は一九四五年春にフエに着任、まもなく現地のベトミン首脳と密かに「相互不可侵」の協定を結んだためベトナム中部では、日本軍と現地人の間のトラブルは皆無だった。
≪敗戦後、彼はベトナム民主共和国の南部抗戦委員会主席兼第五戦区長となったグエン・ソン将軍と親交を結び、「明号作戦」で仏印軍から押収した武器数千点をベトミンに提供、旅団長以下の兵団将兵を復員に向けてベトナム北部へ送り出した後部下数人と共にグエン・ソンの部隊に身を投じ、日本陸軍の歩兵操典の翻訳、作戦指導、戦闘訓練などに専念した。そして四六年春、ビンディンの第五戦区司令部から中部高原のプレイクへ、自らジープを駆って防戦指導に赴く途中、仏軍の待ち伏せ攻撃にあって戦死した≫と資料にある。


 井川少佐の子息で元朝日新聞サイゴン支局長であった井川一久氏(大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員教授)は詳細な調査文献を発表しているが、現地で残留日本兵に「そういう危険を冒して、なぜベトミンの戦列に加わったのか」と質問したところ、彼らは「あれは大東亜戦争の続きだった。ベトナム人を見殺しにして、おめおめと帰国できるかと思った」と答えたから、井川氏は「彼は大東亜戦争がアジア諸民族解放の戦いであったと最晩年まで信じていた」と書いている。


 とまれ、憂鬱な雨の一日、「ワンス・アンド・フォーエバー」を見ていて、旧帝国陸軍の強さとアジアのために身を犠牲にした使命感、これこそ真の「友愛精神」ではないか?と改めて思わされた。

 翻って、映画の中の、自分の身は安全な場所におき、部下に血を流させながらもあくまでも「マスコミの評判」を気にし、自己の世間体と次期選挙、出世と保身だけに気を配る「シビリアン」には、嫌悪感を覚えたが、いずこの「シビリアン」も同じだと不快になった。カメラマンにしても、地獄を味わった彼と、作戦が一段落したあとCH-46で乗り込んできた“身奇麗な”報道関係者の間の落差は救いようがない。

 そう思っていたら今朝の産経6面に宮嶋カメラマンの「『政治生命』かけとんの?」という彼らしい文が載っていた。タイで取材中に殉職した村本博之カメラマンもそうだが、修羅場をくぐらない、くぐろうとしない“御曹司”に、『命をかけて』などと軽々に言ってほしくないと私も思う。紙数がないので貼り付けるからご一読あれ。


 それにしても雨のあとの竹の子のように今度は『舛添新党』が芽を出した。沈没寸前の船から脱出したようだが本船から離脱した「救命ボート」にも波は容赦なく襲い掛かることをお忘れなく。
 いずれにせよこれら“竹の子組”は、一丸となって「打倒民主」で戦わなければ、国民からそっぽを向かれてやがて“泡沫政党”になるだろう。絶対に『敵に塩』を送ることがないようしっかり先を見据えてほしいものである。

「憂鬱な天候」が続くのは『天・地・人』が極端に乱れている証だろう。まだ日本で火山が噴火しないだけマシ、早く天も人もすっきりしてほしいものである。

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