軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

中国漫遊記10「盧溝橋・抗日記念館にて」

午後1時半にホテルを出て盧溝橋に向かった。盧溝橋は、北京市中心部から南西に直線距離にして約15Kmのところを流れている「永定河」にかかる由緒ある橋である。1192年に完成した石の橋で、通称「マルコポーロ橋」とも呼ばれている。全長約260m、幅は約9m、欄干には獅子が彫られていて、その数は492あるという。橋の中央部分には、当時のままの床石が敷き詰められていて、橋の東側には清の乾隆帝が「盧溝曉月」と揮毫した碑が立っている。橋に隣接した城門が「苑平県城」で、1937年7月7日、ここからの射撃が元になって、日支事変が起き日本は泥沼の戦争に引きずりこまれたのであった。
私は8年前と5年前にもここを訪れたが、当時の桜井特務少佐や寺平特務大尉らが、懸命に中国軍と交渉して停戦にこぎつけたにも拘らず、中国側からの挑発は絶えず、遂に日本軍が総攻撃を開始して占領した事実関係を、現地で確認できたことに感激したものである。前回は永定河には少量とはいえ水が流れていたが、今は全く干上がっている。
橋の前の広場が大幅に拡張されていて、至るところに物売りのおばさんたちがたむろしている。マイクロバスを降りるとすぐに駆けつけてきたが、焼き芋が500gで2元である。帰りに王さんが買ってくれて、車内は香ばしいにおいに包まれた。
まず、抗日記念館に入った。8年前はここで「麻薬撲滅キャンペーン」が行われていて、青少年達でごった返していたが、今回は実に静かであった。館内は大幅に拡張整備されていて、正面入り口を入ったホール中央に、予想どうり「角田又一・日本国参院副議長」と大書された赤いリボンがついた大きな花がポツンと飾ってあった。
名物?だったジオラマは不評だった?からか撤去されていたが、代わりにスクリーンを使った映写方式の展示が目立った。例えば、援蒋ルートであったヒマラヤの峰を背景に飛行する米軍のC-47輸送機群の映像などである。どうも「日本軍との戦いに勝利するために貢献してくれた」当時の英米の支援をことさら強調している様子だったから「米国は敵ではない、昔のように仲良くしよう!」というシグナル?を送っているのかもしれない。
館内にはアジア・アフリカ諸国かららしい軍人留学生、30人くらいが集団で見学していて、ガイドが英語で説明していた。「如何に日本軍は凶暴であったか!」を強調しているようだったが、人民解放軍の広報部?などが、テレビカメラで見学する外国軍人達を執拗に写していたから、これも宣伝に使うのだろう。しかし、軍人は一般的に強い方に「関心」があるものである。中国軍が如何に弱かったかという事実を知って、彼らは大いに「残念だった」に違いない。
以前見学した時に、爆撃で負傷して座り込んでいる老婆の写真に「日本軍は暴行して殺し、太ももの肉で餃子を作って食べた」と解説してあったが、さすがに気が引けたのであろうか、撤去されていた。しかし、百人斬りや、赤ん坊が車道で泣いている、「ヤラセ」写真は依然として展示してあったが日本語の解説文は削除されていた。
これらの「日本軍の蛮行写真」を見せられた軍人達はどう思ったか非常に興味があったが、多分、それよりもっと残虐な殺し合いを体験している東欧諸国やアフリカ諸国から来た軍人達には「物足りなかった?」のではなかろうか?
私は、個人的には北京オリンピックが中止になることを願っているのだが、それは、このような出鱈目写真など、いわゆる「虚報宣伝」が、彼らによって執拗に繰り返され、世界中から北京に集まる「筋肉マン」たちや報道陣に、間違った日本人観が植えつけられる懸念が強いからである。そうなっても多分、日本大使館は、傍観するだけで、反論も撤去要求もしないだろうから、アイリス・チャンの「南京虐殺宣伝」のように、開発途上国人達に「日本政府が認めている」と誤解される可能性がある。事実、今回の展示は、国民党も米国も、みんな仲間?のような扱いになっていて、中国の「敵」、つまり「悪いのは日本一国」に絞ってあるように感じた。拡張された抗日記念館全体は、とても見る時間がなかったが、「しっかり抗議」すれば「ギョーザ婦人」の例のように、彼らも撤去せざるを得なくなる事が証明されたのは有益だった。今後とも、真偽が定かでない写真や展示物については、継続して「厳重抗議」を続けるべきであろう。
3時50分に記念館を出て盧溝橋を渡った。ここも大幅に整理され、観光地化が進んでいたが、橋の西側では相変わらず付近の住民達が「みやげ物市」を開いていた。

4時半に盧溝橋を出発して帰路についたが、市内はラッシュアワーの時間帯に入っていて、大混雑。車、と言っても乗用車が非常に多くなった。その中を相変わらずバイク、自転車部隊が並進する。自転車も、電動自転車などが混じっていて、数も増えている。
交通ルールはあって無きが如しだから、広い道路の真ん中に取り残された通行人が、赤ん坊を抱えたまま立ち往生しているので実に危険に思える。勿論クラクションは実に凄まじいが歩行者は気にしているように思えない。注意して見ると、あちらこちらでかなり接触事故をやっていて、公安が入って調べているが、逆に怒鳴り合っただけで別れていく車もある。市内に入ると「ホテル」と「銀行」のビルが目立つことに改めて驚く。
タクシーの運転手を暴漢から守るための「鉄格子」は、最近外されているそうだが、まだまだついているタクシーが目立つからタクシー強盗は依然として多いのだろう。
乗用車はフランスのシトロエンや、ビュイックアウディ、ホンダ、勿論フォルクスワーゲンが目立つ。猛烈な排気ガスの中、5時半にホテルに帰りついた。
吉崎氏に日本からFAXが届いていたそうだが、前日に「発信した」との連絡があった分で、一日遅れでしかも取りに来るように呼び出され、用紙一枚につき3元、合計9元支払わされたそうである!しかも支払いは現金だというから困ったものである。チェックアウト時に清算することを知らないはずはないのだが・・・。カードも「敬遠」されたが、これじゃオリンピックに来た諸外国人からなんと言われるか楽しみである。(最も日本人だけが「敬遠」されているのかもしれないが・・・)
ノートパソコンを持参して、インターネットを使って仕事をしている何人かは本当に不便だったようだ。ADSLが接続できず、ラインが異なると全く接続できないホテルがあり、自室からの電話ラインも非常に遅くて難渋したという。
設備がおかしいのか、それとも「フィルター」がかかっていて、全て「検閲?」されているのか、いずれにせよ、デジタル派には仕事がしづらかったようだが、私のようなアナログ派には全然影響はなかった!
夕食は李氏が選んだ「秀才屋」という市内の大衆ギョーザ店に入ったが、安くて実にうまかった。ギョーザが7種類も出るのである。同じような形なので、うっかりすると7種類全部を食べられないから、みんな「真剣?」に箸を出していた。
帰りに腹ごなしに繁華街で有名な「王府」を散歩した。日本の銀座とは比べ物にならないが、それでも華やかな通りである。オノボリサンたち?が、楽しそうに散歩していたが、ブティックやヘアーサロンが目立ち、若者達の生活様式は確実に西欧化していることを実感した。9時にタクシーを拾って帰路に着いたが、一方通行が多いのでやや遠回りした!と王さんが運転手に「抗議?」した。日本人は大人気ない、とか「マア良いか」と簡単に諦めてしまうが中国人達は少しでも気になると遠慮なく質問して確かめようとする。勿論運転手も負けてはいない。何だかんだと理屈を言う。靖国問題の根源はここにあるようだ!
ホテルまで20分かかり12元、高いのか安いのかは私にはわからなかった。  (続く)