軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

生涯忘れられない事故

20日、久しぶりに空自美保基地を訪問して講話をしたが、まじめな現役の健闘ぶりに、すっかり嬉しくなった。私は「パワーポイント」とプロジェクターを使って講話するので「ピン」だけ持って行ったのだが、部隊の準備は万端整っていて楽な講話であった。200人ほど集まった幹部、上級空曹たちは、身じろぎもせず熱心に聴いてくれ、竹島問題などに関する鋭い質問も出たから、講話は二時間を超えた。夕方、施設や輸送機などを見学したが、未だに管制塔にはエレベーターがなく、108階段を上り下りしているのには“泣けて”来た。民間の「米子空港」の管制も受け持っているのだから、空港開業と同時にエレベーターくらい運輸省か航空会社が設置しても良かったろうに・・・。ある意味当り前かもしれないが、旧式のC-1輸送機には今時GPSもなく、個人が「カーナビ」を持ち込んで参考にしているという。
新型輸送機導入と共に、最新鋭の機材を装備させてやってもらいたいと思った。
翌日は近在の「足立美術館」を見学、その見事な施設と内容に感動した。足立全康氏という一「民間人」が創設した美術館だが、お金はこういう風に使うものだ!と教えられた。機会を改めてもう一度鑑賞しなおしたいと思った。
昼食後、平田市久多見に向かった。島根半島槍ヶ岳の中腹に、地元の皆様が建立してくれた「延命地蔵尊」があり、ここには、私のかっての「戦友たち」が眠っている。雑誌「丸」に連載中の「我は空の子・奮闘記(平成18年1月号)」から一部引用しよう。

昭和44年5月11日、この日は美保基地の開庁記念日で、わが飛行隊はF-86F・4機による「祝賀飛行」を命ぜられていた。ところが、美保基地上空の天候が悪かったため、離陸予定時刻を一時間延期した「タイガー編隊」は午前11時30分に離陸、編隊は「ダイアモンド隊形」をとり、島根半島上空で指示通り降下進入を開始したが、雲底が予想以上に低かったために降下を中止して上昇しようとした瞬間、1、2、4番機(ダイヤモンド隊形の左半分)が山頂付近に激突、私と代って飛行した3番機・M3尉は右端だったため左主翼を大破しながらも、予備機のT3尉に見守られて基地に生還したが、私が飛ぶはずだった4番機の位置で飛んだ重松3尉は私の身代わりとなって殉職してしまった。以来私は昭和44年5月11日を私の「命日」に決めたのである。
 飛行隊の遺族係長を命ぜられた私は、ご遺族に代わって死亡診断書や転居届の手配から、コンテナの発注、組合員証等書類の返納等、不慣れな仕事で目が回る程であったが、この間に信じられない様な貴重な体験をした。
 5月17日土曜日午後2時、郷里・岡谷市に帰還する事になった小口3佐(一階級特進)の英霊は、ご両家のご遺族と共に輸送機YS―11に搭乗したが、目的地・羽田が強風のため急遽「伊丹」まで進出して回復を待つ事になった。しかし、羽田の横風は治まりそうになかったため、午後4時に伊丹を発って小牧まで進出して一泊する事としたのだが、この時のYS―11の機長・吉田3佐の判断と決断力は素晴らしかったし、疲れきった遺族に対するクルーの対応も極めて立派であった。
 午後5時、小牧基地に着くと、三空団(当時)の主要幹部が出迎えに来ていたのには驚いた。将校日誌を引用しよう。
「(前略)…英霊の出迎え、基地内通過時の隊員達の敬礼、衛門での捧げ銃はただただ感謝なり。翌日、監理部長・大森作良2佐に挨拶するに、総務班長・高久保基一3佐はこっそり私に五千円を託し『もしも不足時には使用せよ』と言われる。(中略)
 岡谷市における陸上自衛隊地方連絡部の隊員も、日曜日にもかかわらず英霊の守護に任じたり。軍の本質を見たり。(後略)」
 これは、突然遺族に同行する様命ぜられた橋本2尉と私は部隊から一銭も貰っておらず、たまたま橋本2尉が17日に受領した「給料袋」を制服のポケットに入れていたので全てそれで賄う事にしたのであったが、それを知った高久保3佐が名古屋から岡谷までの国鉄乗車券購入の足しにする様に、と配慮してくれたのであった。因みにその頃の料金は、名古屋〜岡谷間往復1780円、急行料金200円、グリーン券800円であった。高久保3佐の誠意は涙が出るほど嬉しかったのを覚えている。
 その夜、我々の宿泊先であった「名古屋クラブ」の玄関で橋本2尉と二人でご遺族の手荷物造りしていると、三空団司令・桜井忠成空将補が来訪、仮安置された英霊に参拝されたが、「この指揮官にしてこの部隊ありだ!」と感動したものである。
 事故後隊長が更迭されたわが飛行隊では、新任隊長が士気高揚に相当苦労していたのであったが、そんな最中の7月1日付で私は1尉に昇任した。八空団司令も空将補に昇進し「位は上司から与えられるもの、識能は自分で磨くもの」と朝礼で訓示したところ、祝賀飛行を命令した西空司令官も東京に栄転し、後任にこの事故の調査委員長だった監察官が「空将に昇任」して着任してきたので、飛行隊には微妙な空気が漂い始め、隊長の統率は更に難しくなった様に思われた。それはこの事故が「編隊長ミスか?」という報道にリードされたため、葬儀前に小口未亡人が「主人の落ち度で皆様の大切な方を亡くさせてしまい誠に申し訳ございません…」と他の遺族たちに謝って回っていたことや、そのせいか編隊長の特別昇任だけが遅れた事を皆知っていたからであり、司令部の安全検査では徹底して「編隊長の職責」について強調され、飛行群司令からも「4機編隊の場合はあくまでも全責任は編隊長である」と厳しく指導された処であったから、仲間を一挙に三人も失った衝撃もあって、「パイロットではない団司令や司令官には我々の真情は理解してもらえない」とパイロットの一部に反発と諦めにも似た感情が生まれたからであったろう。事実、偶然というか、司令官も航空団司令も、共にパイロット出身ではなかったのである。
飛行隊では、密かに「万骨…!(一将功なりて・・・)」と言い交わす者や、今まで見向きもしなかった割愛(民間航空会社に転出する取り決め・・・つまり退職希望)に関する情報を求める者が現れ、一種のサボタージュ状態が続いたのもこの頃であった。
 唯一生還したM3尉(当時)は、その後安全教育などでこの事故の話になると体が震え出して耐えられそうになかったという。そこで仲間内ではこの事故例は彼の前では「禁句」にされていたのだが、やがて彼も癌を患い若くしてこの世を去ってしまった。編隊長が激突する瞬間をキャノピー越しに目撃した彼の苦悩は想像を絶するものであったろう。今頃黄泉の国で「タイガー編隊」に空中集合し、小口3佐、重松1尉、高村3尉と共に、がっちりと4機編隊を組んで飛び続けているに違いない。
この事故は、私と重松が、基地近傍の農家の二軒長屋を借りて新生活を始めたばかりの、共に新婚半年目のことであった。
私が来るときいて集まった地元の皆さんと共に、延命地蔵尊の前に額づき、高橋住職の読経に頭を垂れ、心から冥福を祈ってきたのだが、地元の方々が、未だに地蔵尊を維持し続けて下さっている事が何よりも有難い。10回忌に重松1尉の母上に同行した時、「場所が違えば犬畜生扱いされたろうに、平田の方々に手厚く葬られて、拓男は本当にいいところで死んでくれた。親孝行してくれた」と言われた事が今でも私の耳に焼き付いている。
山を下ると、公民館に「直会の場」が用意してあったのには驚いた。同行した基地司令はじめ自衛隊幹部は恐縮していたが「勤務中だから司令は飲酒禁止!」と私が言うと、酪農家の河村氏が「出雲人はこれが楽しみじゃから」といってにこやかに酒を注ぎ、遺体を収容した当時の実話を語ってくれたが、改めて私の「死に様」が脳裏に浮かんだ。そして「わしらを守っていてくださる自衛隊の方々が殉職されたのだから、今度は我々がその方々をお守りするのが義務じゃ」といわれたのには感動した。こうして平田市の皆さん方と基地との交流は30年以上も続いているのである。
改めて3英霊のご冥福と、ご遺族のご健康をお祈りし、平田市の皆さん方が「延命地蔵尊」護持委員会を作って、“戦死”した3人を供養し続けて下さっていることに感謝したい。