軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

熊谷基地の“地酒”秘話

satoumamoru2006-03-18


毎日、気分が悪くなるようなニュースが続くので精神衛生上よくない。最高裁の公判を「すっぽかした」悪徳弁護人に対しては、私のブログだけでも大きな反響があったが、連日テレビで怒りの声が上がっている。そういう点では未だこの国にも良心が残っているように感じられ心強い限りだが、今日は一転して心温まるエピソードを記しておきたい。

先日熊谷基地で興味ある話を聞いた。航空自衛隊熊谷基地は、旧陸軍の飛行場跡で、現在は新隊員の教育と術科教育を受け持つ教育部隊である。年々教育施設は充実されてきたが、学校本部は依然として旧陸軍時代の趣きある“骨董”であった。しかしついに老朽化が進み危険になったため数年前に取り壊されたのだが、その時に「昭和10年に熊谷陸軍飛行学校が建設された事を記念して、数年間だけ限定販売された『空の華』という地酒のラベル」(画像参照)が出てきた。醸造元は権田酒造という、今でも唯一作り続けている基地に接した造り酒屋で、これを機に、同じ銘柄の地酒が約60年ぶりに復刻されたのだという。
復刻版?は、「熊谷の試験場で開発した『香り酵母』で醸し、この地の水と空気の中で育んだ『熊谷基地の地酒』」として基地内の売店で販売されているらしいが、たまたま、御孫さんが入隊したので、金沢から入隊式に参列した米田昭二郎様という方がこの御酒に出会い、この酒にまつわる当時の思い出話を権田酒造の社長さんに書かれたという話を聞いた。以下は、米田氏が社長さんに宛てた手紙の要旨なのだが、ご本人の了解を頂いたので、ここでご披露したい。

「・・・さる4月、基地の売店で思いがけなくも貴社の銘酒『空の華』に出会い。60年前の記憶が鮮明に甦り、言葉では表現できない感動を覚えました。その当時の状況を静かに心のうちにしまっておこうと思っていたのですが、今もその感激が薄れるどころかますます強化され、やはり社長様へお礼の手紙を書くことになりました。

 終戦間近な20年の春、桜の咲く少し前でした。徴兵検査が繰り下げられ、私も第一乙種合格、高射砲隊配属に内定し、赤紙を待つ日々でした。同級生は全員召集され、中島飛行機関連の地元軍需工場(輪島航空工業株式会社)勤務の私だけが取り残されたままでした。
それというのも、飛行機製造に欠かせない一工程が資材払底のためピンチに陥り、ギブアップ寸前のところを、全く思いがけない怪我の功名の発明で、てんやわんやの状態だったためらしいのです。
 その発明を、とりあえず本社中島飛行機大田工場へ報告するよう、社長命令があり、海軍技術将校に伴われて出向きました。昭和20年春のことです。
 発表・報告も終わり、海軍技術将校が自動車で熊谷基地を案内されました。どこまでも広い基地には、そんなに大きくない木が植えられています。何の説明もなくつれてこられたので一体なんだろうと思っていましたが、そこに単発の飛行機があり、私と同じくらいの若い飛行士が白いマフラーを首に巻いて10人くらい緊張した面持ちで整列し、上官から訓辞を受けています。案内の将校がそれを指差して、「あれが特攻隊の方々だ。君の発明が乗機の飛行を支える。任務途中での無念な事故死を防げることだろう。これからも研究に一層頑張ってください」という内容の事を言われました。全く突然のことで、何の予備知識のない若造には目の前に展開される事実に、唯呆然とするだけでした。
 そのとき、隊員にきらきら光るガラスの小さなコップが配られました。木下にたたずむ私にも、同じようなものを手渡し『これは特攻隊員が出撃に際し、いただく酒です。君にもそれを勧めるように言われています。この『若桜』を頂きなさい』と話されて、透明な酒を注いでくれました。端麗、芳醇。殆どアルコールをたしなんだことのない者にとって、その味はどう表現したらよいか分かりませんが、市販の日本酒でもなく、白ワインか洋酒の一種かとも思われました。よく冷えていて、周囲の雰囲気からかもしれませんが、キリッとした神秘的な緊張感を覚えたものでした。
 それ以降、何かの機会に終戦直前の思いがけない体験を思い出す事がたびたびあっても、その『若桜』に出会うことは絶えて全くありませんでした。
 この4月6日、孫の入隊式参列のため60年ぶりの熊谷基地訪問の機会に恵まれました。当時の広大さはないようですが、入り口付近には昔の面影が残っているように思われました。行事が終わって、懐旧の念に駆られつつ咲き始めた若桜も堪能しつつ、ゆっくり構内を参観し、すっかり人気がなくなった入り口へ向かっていたとき、隊員のための売店が目にとまりました。そこも見学すべく立ち寄り、よく整理された『基地生協』に感心しながら一巡の途中です。陳列棚の片隅にひっそりとお酒スペースがあるのに気がつきました。何の変哲もない普段の720ミリリットル小瓶を手にとって見て、あっと驚きました。複葉単発の飛行機の絵をあしらった『空の華』の文字が60年前に私を導いてくれました。不思議な力に誘われるように、背後の添付レッテルへ眼を移しました。そこには、もうあきらめていた思いがけない『60年ぶりの復刻』の記事がありました・・・」

 基地司令に拠れば、終戦直前、ここから九州の基地へ移動し、そこから沖縄方面に飛び立っていった「若桜」達の中には、飛行時間が僅か20時間という、信じられない若者達も居たという。今でいえば、漸くT-3初等練習機で、単独飛行を終えたばかりの操縦技量だということになる。
 資材が欠乏して、飛行機自体に故障が続発していたときだったから、米田氏の発明がどのように生かされたのかは分からない。しかし、特攻隊の出撃の場に立ち会った米田氏が、取り壊された旧軍時代の建物の中から出てきた「空の華」という一枚のラベルが元で、60年前にタイムスリップしたことは確かであろう。
 60年前に、若者達が祖国のために飛び立っていった滑走路跡に建つ熊谷基地では、今でも祖国防衛の意欲に燃えた若者達が黙々と訓練に励んでいる。