軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

本村氏の無念を察する

 母子殺人事件の最高裁判決は「差し戻し」であった。つまり高裁で再度裁判せよ、と言うものだが、それは「死刑」を意味する。なぜ「自判」出来なかったのだろうか?
裁判に関しては航空自衛隊も苦い経験を持つ。昭和46年7月30日に、岩手県雫石上空で起きた、F−86Fとボーイング727との接触墜落事故、いわゆる「雫石事故」である。
私はその後の裁判の経過からこれを「事故」とは呼ばず「事件」と呼んできた。
概要はすでにご存知だろうから省略するが、発生直後は「自衛隊機が体当たりした!」とセンセーショナルにマスコミに「喧伝」されて、裁判前からすでに「犯人」は自衛隊だ、とされてしまった。
その後の調査では、民航機のほうが「追突」したことがわかったが「後の祭り」
刑事裁判では、追突された訓練生が「無罪」となり、彼を指導していた教官が有罪とされた。やや遅れて賠償責任を問う「民事」が進行していたが、その場では意外な事実が次々に明らかにされ始めた。「追突」であったことも判明したが、なぜか「刑事裁判」には影響がなかった。その後(と言っても15年後だが)、民航機の乗客が、機内から撮影していた8ミリフィルムが、民航機会社側から民事法廷に提出されたが、それを分析した結果、民航機のほうが空自の臨時訓練空域内に「侵入」していたことが判明した。ところがそれが判明するや、証拠として提出した民航側が、その証拠を取り下げたのである。
最高裁に上がっていた「刑事裁判」は、当然「新証拠」が出てきたのだから、2審差し戻し」になるものと期待されたが、突然「最高裁は自判」して、被告を執行猶予つきの有罪にしたのであった。この事件後、事件発生時に当時自民党幹事長で、首相後継争いをしていた田中角栄氏と当該民航側との「いわゆるロッキード事件」が発覚し、やがて「無事」に首相となっていた田中氏は裁判の場に出ることとなったが、この一例をとっても見ても、「雫石事件」は、佐藤優・元外務省員が言う「国策捜査」と言われるべきものであったと思う。
162名が死んだ大事件だから・・・と言った先輩がいたが、一人死のうと500人死のうと「人の命」に変わりあるまい。ましてや死亡者の数で判決が左右されることがあってはならないはずだ。
この「事件」は、航空自衛隊の歴史に大きなしこりを残したと思う。
今回、本村氏の、最愛の妻と娘さんを殺した犯人に対する裁判も、なんとなく釈然としないところがあるが、われわれが苦汁を飲んだ「雫石事件」に比べると、やや進歩?したのかもしれない。それはやはり「世論の力」だろう。この極悪非道な犯罪を、国民は断じて許しはすまい。
雫石事件当時、自衛隊は「非人扱い」だった。誰も(ごく少数の人を除いて)味方になってくれなかった。マスコミは全員「敵」だった。その中で、防衛庁は孤軍奮闘したが結局は「国策」に封じられてしまった。そして「犯人」とされた隈君は昨年夏、がんで他界した。66歳であった。
世の雰囲気に左右される裁判であれば、庶民は何を信じてよいかわからなくなる。以前書いたがそうなれば「復讐制度復活」以外にはない。力に自信がない人のためには「請負や=つまり助っ人」が出てくるだろう。そうなれば国の「規律」はどうなるか。
本村氏の災難は、明日はわが身である。ここでこのような残虐な事件は封殺しなければならない。天下に正義があることを知らしめる絶好のチャンスであったが、最高裁は「自判」を避けた。そして再び高裁での「長ーい」、検察側と“正常とは思えない”弁護側との、「口論」が繰り返され、その間、本村氏は「針の上のむしろ」に座らされる。裁判官と言えども「人の子」だと言うが、それじゃ困る。日銀総裁といえども「金がほしい」じゃ困るのである。
戦後の食糧難時代に、佐賀の裁判官は「闇米」を拒否して飢え死にした。これを「馬鹿正直だ」と笑うものがいたら、天は決して許さないだろう。
慈善団体に寄付する予定が狂った総裁には気の毒だが、庶民感覚を推察できない「篤志家」からの寄付なんぞ、貰った庶民も戸惑うはずだ。

体調不良で静かにしていたかったが、本村氏の会見を見て黙っていられなかった。つくづく、わが国から「武士は食わねど」の精神が失われたことを痛感した次第。こんなことに憤っていたら、体調が悪くなるはず!と後輩たちからメールが届きそうだが・・・。記憶違いはお許しを。