軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

人道主義を貫いた「北満機関」

富田メモを追及しているある方から情報が入った。調査はまだ途中だということだが、平成17年7月25日に、あの野中氏が四国のあるところで講演をした際に、今回と同じく「A級“戦犯”合祀に天皇が怒った」という内容の発言をしたという。徳川侍従長会見を下敷きにしたものだったらしいが、詳細は不明である。
 しかし、どうも今回の「富田メモ」は「十分に」いかがわしい。新聞協会賞受賞は決まったようだが、現に「受賞」はしていないのだから、新聞協会のためにも、日経新聞のためにも、日経は受賞を辞退したほうが良い様な気がする。

 ところで、彼からの問い合わせで、それよりも面白かったのが、表記の問題である。昭和13年3月12日、当時日本とドイツの間には「日独防共協定」はあったが、未だ「同盟関係」にはなかった。しかし、ドイツでは承知の通りユダヤ人たちがひどい迫害を受けていて、今の北朝鮮のように国外逃亡者が頻発していた。その脱出してきたユダヤ人一行が、大陸を横断して満州にたどり着いたのだが「オトコオル?」駅で立ち往生し、零下20度の環境だったため「凍死者」が続出していたという。
 これを見たハルピンの特務機関上層部は、何とかして彼らユダヤ人たちを保護して国外に脱出させることはできないものかと考え、特別救援列車を編成しようとしたらしい。しかし、そう簡単な問題ではないし、仮に編成出来ても独断では動かせない。
 そこで樋口敬一郎機関長は、時の東條英機関東軍参謀長に相談したところ、東條参謀長はユダヤ人救出のための特別列車運行を許可したという。どうも関東軍司令官には内緒だったらしいが、それは彼が全責任を負う決意だったからだという。
当時の日本は「人種差別に反対」し、国連に提訴していたが、米国などの反対で没になったことは良く知られている。
 またドイツとの関係では、ドイツは昭和13年2月20日に、満州国承認を声明し、5月23日にはドイツ人顧問を、国民政府から引き上げる決定をしていた。ドイツは既に3月13日に、オーストリーを併合し、続いてチェコスロバキアに工作活動を集中していた。そしてドイツ軍が9月1日にチェコに進駐し欧州情勢は緊迫していたことから考えると、彼は「ドイツから脱出してきたユダヤ人一行の国外逃亡を手助けすることは、日独間に重大な影響を与えかねない。そんな中で、救援列車運行を決断した東條参謀長は勇気がある。どうも彼(東條)に対する戦後の評価はおかしいところが多々あるのではないか?事実関係を知っていたら教えてほしい」ということだったのだが、私は戦中?派で、戦後育ちの防大出身、私の手持ち資料を見てみたが、すぐには出てこない。旧陸軍関係者にお伺いされたら?といってこの話は終わったのだが、どうも気にかかる。もしも、このブログ読者の中で、何らかの情報をお持ちの方はぜひ教えていただきたいものである。
そんなことで、今日は、現代離れした「秘話」をお届けした次第。