軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

日航機墜落事故・余談

 前3回に亘る私の<反論>は、読者の方々の関心を引いたようである。中には、依然として疑問をもたれる方々もいるが、当事の錯綜した報道状況からそれはやむをえないと思う。そこで総括的に当時の状況の補足をしておきたい。

1、この事故に対する陸・空自衛隊の活動状況は、22日間で人員延べ約46500名、車両約4530台、航空機約290機を使用した最大規模の「作戦」であった。国防を旨とする組織である以上、軍事的装備品をそれに準用するのだが、そこには限界があった。たとえば航空自衛隊の作業服等は、基地内の整備地区で使用することを建前としている関係上、作業靴は山岳地帯で使用するには不適であり、脛当てもないため、隊員達が下半身を機体の破片で損傷する例が多かった。

2、一刻も早く、という非常呼集発令で、浜松方面から駆けつけた応援部隊は、夜間東名高速道の料金所で「料金」を請求され立ち往生した例があった。運転手が財布を持参しなかったため、また乗車した隊員も制服で部隊に駆けつけ、作業服に着替えた隊員達の多くが財布を携行しなかったため、金集めをするのに手間取ったところ、後方に並んだ一般車両から警笛を鳴らされ、罵声を浴びた例もあった。
 これなどは「笑い話」で済んだが、自衛隊の行動を制約することに熱心すぎて、肝心の行動が大きく制約されていたという例である。以後、国会で問題になり、災害派遣という「公務」出動中は、その表示を掲げて行動し、道路公団などは自動的に通行を許可することになったはずである。どこの国でも、軍隊が有料道路を通行するのは原則無料である。中国などでは、一般人民が、軍用車両を真似て、迷彩服を着て運転し、通行料金を騙していた例が報告されているくらいである。

3、警察との連携はまったくと言ってよいほど取れなかった。現場でヘリコプターからパトカーへ直接連絡しようにも、無線周波数が異なるため通じない。パトカー上空まで行っても、夜間だから上空から見ると点滅灯が確認できず、どれがパトカーか判別できない。当時は上空からパトカーを誘導しようにも方策がなかったのである。以後、無線は解決された筈だし、パトカーの点滅灯も上空から見ても点滅状態が分かるように改善された筈である。勿論パトカーの車体番号も大きく屋根に書かれる様になった。

4、これら、一般国民にはとても信じられないような実例が、大幅に改善されたのは、12月10日の衆議院内閣委員会での、田中慶秋議員(当事民社党)の質問によるものが多い。思い出すままに列挙すると、
「空自のスクランブルについては領空侵犯の場合だけに規定されているが(実は今回の発令はまさに司令官が首を賭けた異例事態であった)今回の事故にかんがみ災害派遣の要請がなくともスクランブル発進できるように法改正し、必要な人員、器材の整備を急ぐべき」(国家機関として、各省庁が縦割りでなければ…、最も民間航空が営利目的を強調しすぎて社内秘密?を重視し、カンパニーラジオを優先するようでは、航空交通管制官も打つ手はない。空地一体となって救援活動にまい進出来る体制ができていたら、123便が緊急事態を宣言した時点で、中空司令官は直ちに百里からスクランブルさせ、富士山周辺空域で近づいたファントムからジャンボ機の損傷を機長に通報し、スロットル使用法による何らかの対処は可能であったかもしれない。このとき駆けつけた編隊長、式地3佐は、私が305飛行隊長時代の教え子で、優秀な技量が認められ、その後T−2ブルーインパルスのメンバーになったが、訓練中、金華山沖で殉職した)

5、「今回出動した自衛官災害派遣手当は1日につき660円支給されたのに対して、警察官は1日6000円以上支給されている。両者の違いが大きすぎると思うが防衛庁の見解は?」(出動に関わる経費は約3000万円、食費推計約5600万円。それに対して警察庁群馬県警は延べ約38000名出動、出動経費約2億5600万円、食費約7300万円であった、と朝日新聞が報じた)

6、「文春86年1月号の『ある自衛官の涙と殺意』の記事を防衛庁長官ないし防衛庁は承知しているか。この記事によるとA社のT記者は過去に自衛官人事に介入した事例があるように受け止められるが、そのようなことが実際にあったのか?」
 田中慶秋議員の質問によってその後かなり改善に反映されたが、同じく質問に立った社会党の元信尭議員の方は、「シビリアンコントロール問題」や私の論文が「防衛庁の公的見解か」などと「雫石事件発言」を中心にした“T記者ご注進”の内容に徹していた。これらの詳細は昭和60年12月10日の「衆院内閣委員会録第六号」に詳しい。

7、田中議員の国会質問で、上記高速道の料金問題、災害派遣手当の改善(といっても実質さほど向上したことにはならないカラクリがあったのだが)、新聞記者たちの防衛庁内における活動にある種の制限などが検討された。
 たとえばこの事故のとき、空幕では総務課など肝心要のセクションの電話回線すべてが記者に占領されて、内局はもとより部隊、幕内との連絡が困難になったのであった。しかも、広報室内や庁内に記者たちがたむろしたため、まだ未確認の情報などが精粗合わせて記者に流れ、それがすぐに報道され、現地部隊も振り回される事態になった。また、スクランブルから帰ったパイロット、救難員たちへの取材要求が殺到し、現地で可能な限り対応するとしても、肝心の空幕が未確認の情報が流出して混乱し、報道されてしまったあとに訂正が効かないという事態も生じた。

8、勿論、このような重大で巨大な事故が、人跡未踏の山岳地帯で発生することは誰も想定していなかったこともあり、特に基本となる地図判読では、3自衛隊間で不統一だったことは影響が大きかった。統合が出来た現在も、情報など、一部でなかなか統一できない面があると報じられているが、それは職種が違うので致し方ない点がある。事故当時の時点では全く不統一であった。

9、現場の捜索状況について、たとえばある教授(当時)から直接電話を貰い仰天したことがある。彼は「何故ヘリが夜間着陸して救出しなかったのか?」とお怒りだったのだが、「先生はどうすればいいとお考えだったのですか?」と聞くと「火災が起きている場所の近くに降りればいいじゃないか」とのこと。ヘリコプターの着陸場所としては少なくともローターの2倍以上の空き地(平坦地で直径約50m斜面5〜6度以内。進入角約6度の進行方向上に障害物がないこと)が必要だが、その場所はどうするのか?」と聞くと、「近くに小学校のグランドがあるはずだ」という。「その小学校のありかをどうして知るのか?」と聞くと「村の有線放送で調べればよいじゃないか」と言うのだから話にならない。そこで「百歩譲って小学校のグラウンドを着陸場に確保できたとして、夜間照明装置をどうするか?」と聞いてまたまた驚いた。「ガソリンを入れたバケツに火をつけて、グランドの四隅に置けばいい」というのである。まさかガダルカナルニューギニアの闘いであるまいし、“教授”でさえもこの程度の知識なのである。「それを机上の空論というのです」と言った途端彼は激怒した。その後この教授は、電話で応対した私と、当時陸自・東部方面隊のK広報班長とのやり取りをいかにも「つっけんどん」に対応したとする会話記録(殆ど自分の都合の良いように改ざん)を「今のところ公表は差し控えている」という“脅し文句”つきで、陸・空幕僚長に対し「私信」として出している。この教授は現在も“ご活躍中”なので特に名を秘す!

 それまで単純な「戦闘機パイロット」に過ぎなかった私が、この事件をきっかけに、社会の裏、人間の醜悪さの一部を目にして「目の鱗」が取れて“人生観”が大きく変化したのであったが、そう述懐したとき、ある先輩が「鱗は自生するからすぐ元に戻る。もう昔に戻っているんじゃないか?」とからかわれたことを思い出す。あれから既に22年、確かに今では“かなり分厚い鱗”が自生していると自覚している。