軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

いわれなき批判に反論する(その3)

 昨日午後は都心に出て、インドネシア独立に協力した元軍人方のお話を聞いてきた。80代後半、中には林田先生のように90歳を越えた方々の、凛とした姿勢はどこから来るのだろう?と、我々戦後育ちは不思議に感じるのだが、私は大先輩方の姿から「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉を実感する。
 今回もインドネシアの最新情報をうかがったが、どうも資源外交で我が国は遅れを取っているように感じる。「遅れ」と言うより、今の日本外交はもとより、商社などの行動基準・価値観に戦前との大きな相違があり、今は“金儲け”がすべての基準になっているのではないか?と感じる。今や日本人の思考の根源を支配しているのは「パンだけがすべてだ」という意識である。
 昔は「植民地主義に対する抵抗、アジアの同胞を解放する」という崇高な使命感が日本人の中にみなぎっていた。その崇高な行為を誤った(というより意図的に)「侵略行為」に置き換えて日本人を自ら貶めてきた「日教組」などの教育成果が、いまや如実に現れているのではないか?と、話を聞きながら考えた。
 これについてはまた書く機会もあるだろうから、今日はメディアの「虚報」を考える最終回として、お約束した「私の反論」最終章を掲載しておきたい。


「いわれなき批判に反論する」

5、「自衛隊無人機」が垂直尾翼にぶっつかったのか?
 また、事故原因の究明が始まるや、一部の自称航空専門家がテレビに出演して、なんとも無責任な放言をしている。
 本件事故の発生当初からそういう連中の発言を克明に記録したならば、その右顧左眄ぶりに失笑を禁じえないであろうが、所詮は素人の勝手な放言であり気にすることもないかもしれないが、視聴者は「肩書き」に弱いからすぐに信用してしまう危険がある。この種マスコミの流言によって航空自衛隊は致命的な深手を負った苦い経験がある。それは読者もご記憶であろうが昭和四十六年七月三〇日、岩手県雫石上空で起こった全日空B727型機と空自のF86F機の空中衝突事故である。
 朝日ジャーナルは「この事故の汚名を晴らすためにも(自衛隊の)“決死”の活躍を期待した人も多かった筈だ」と書き、サンデー毎日にも作家のY氏が雫石事故は「自衛隊機が民間航路へ侵入した結果です」と述べた。
 雫石事故については刑事裁判は結審し、直接衝突された訓練生は無罪となったものの彼を指揮していた教官は有罪だとされた。しかし我々空自の隊員はこの事故は、全日空機が一方的にジェットルートを逸脱して訓練空域に侵入した結果であり、しかも操縦席に機長は居なかったとしか考えられず、あるいは居たとしても前方を見張っていなかったため、訓練中の自衛隊機に追突し、何が起こったかわからぬまま墜落した事故であると確信しており、それゆえ我々は今回のJAL機の事故調査の行方を興味深く見守っている。去る二月、朝日新聞は「雫石事件の民事の部は、全日空側が提出した8ミリフィルムにより新たな局面を迎えつつある」と報じた。朝日ジャーナルや作家Y氏がこの事故を自衛隊側の責任と思っているのは当時のズサンな事故調査と、誤った先入観にとらわれたマスコミの誤報道を鵜呑みにしているからである。
 今回もTBSテレビで航空評論家S氏が「航空自衛隊無人標的機が垂直尾翼にぶっつかった可能性もある」と発言した。同氏は、空自の保有する標的機とその運用について最新の知識を持っていたとは思えないが、その発言はサンデー毎日に引用され、空自に対して疑いの目を向けさせるに十分であり、「雫石」の二の舞だったのではないかとの批判が空幕広報室によせられた。作家Y氏もR・116という空自が使ってもいない空域を持ち出し、「レーダーに映った機影をもう一度調べ直す必要があるんじゃないか」と主張しているが、やがてこれらの“評論家諸氏”の無知が証明される時が必ず来るであろう。しかしながらこれらの放言の恐ろしさは、たとえ後刻彼ら自身が訂正しても(ほとんど訂正することはないが)電波のように伝わっていつの間にか真実であるかのようにみなされてしまうところにある。また仮に事実無根であることが証明されても、彼らは一切責任は取らず、いずれまた航空事故が起きるとしゃあしゃあとして出演料を稼ぐのである。

結び
 以上JAL機墜落事故の「救難活動の遅れ」に対する批判等のうち、航空自衛隊に関すると思われる部分について反論を試みたが、我々としても今回の対応が万全であったなどとは自画自賛しているわけでは決してない。
 航空活動を主体としているため、詳細な地図判読が必ずしも十分ではなかったこと、通信回線がパンクしてNTTが移動電話を無料で提供してくれたからやっとしのげたこと、山岳地での活動に適した靴や被服を所有していなかったこと等など、反省すべきことは多々ある。お盆休み中の隊員、夕食中または入浴中に非常呼集を受けた隊員たちが、取るものもとりあえず十三日早朝、現場に向かってトラックを走らせたのだが、報道陣の車が途中多数停車していたためトラックを降りて徒歩で山へ踏み込んだため、現場到着が一日遅れる結果となった。
 現場に到着した隊員たちは食事と排便に苦労しつつ、破損の激しい遺体を、泣きながら搬出した。すこぶる不便な生活であったが不平不満を言う隊員は一人も居なかった。むしろ補給など管理支援要員までもが是非現場に出たいと強硬に言い出したり、医官の診断で後送と決まった隊員が「このまま帰ることは不名誉である」と申し出て現場に戻るなど、若い隊員たちの士気は旺盛であった。しかもこれらの隊員は、価値観が多様化したといわれる社会の中で育ち、二・三年前に入隊した若者だったのである。あまり報道されなかったが、自衛隊及び報道陣のヘリコプターの空中衝突を防止するための輸送機などによる空中統制業務(運行管制)も極めて重要な業務であり、初めての試みであったにもかかわらず一件の事故も発生しなかったのはご承知のとおりである。これは敢えて自画自賛する次第である。
 我々は正しい批判には謙虚でありたい。しかし「サラリーマン軍隊・失業対策」などという悪意の放言は座視できない。われわれも文民の皆様と同じく日本人である。しかも一生懸命努力して評価されないことに耐えられるような聖人君子でもない。
 ためにする自衛隊批判よりも、むしろ大量空中輸送時代における飛行安全の確保と、航空救難体制の遅れの方を真剣に考えその対策を練るべきではなかろうか。

(補足)
 月曜評論紙上に掲載されたこの論文は大変な反響を呼んだ。自衛隊に対する「非難」が、徐々に「激励」に変わったが、私の手元にはそれ以後750通の手紙が届けられた。その最初の手紙がM元防衛事務次官からの毛筆の激励文だったのが印象的だったが、大半は現場で苦労した、陸・空自衛隊員たちからだった。
 月曜評論紙に掲載した文章には、実名をM氏だとかN氏というように隠したのだが、全ての資料を調べた高名なジャーナリストから「彼らは自ら実名で批判を書いているのに、あなたが何も彼らを庇ってやる必要はない。堂々と実名を挙げて批判すべきである。これがこの世界(ジャーナリスト)の掟である」という助言を戴いた。その直後、防衛庁(当事)の機関紙「朝雲」新聞から、この文章を9枚にして(月曜評論は原稿用紙20枚)再掲載したい、と申し出があった。そこで、文章を簡略化して掲載したのだが、その際私は評論家達の実名を復活した。
 するとなぜかA紙記者が私の部屋を訪れて「国会で問題になる」と脅迫?した。
「どこが問題になるのか?」と聞くと「雫石事件の箇所である」といった。
「月曜評論には既に書いているのに何故か?」と聞くと、「朝雲新聞防衛庁の新聞だから、防衛庁が雫石裁判の批判をしたことになる」というのが彼の主張であった。そして彼は静岡出身の社会党議員に「資料を提供?」し、「彼の予言?どおり」国会で問題化した。マッチポンプの典型的な実例である。
 これが一連の「空幕広報室事件」の発端で、翌年新春号の月刊誌「文芸春秋」で「涙と殺意・・・」という表題で大変な話題になったものである。