軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

退官後10年経過!

 7月1日は「香港返還10周年」であった。返還記念式典で胡錦濤主席は、「1国2制度」の成功を強調したそうだが、制度は安定?していても「民主化」は後退しているらしく、「2012年に直接選挙を」という要求を掲げたデモ隊6万8000人が行進したという。「香港当局としては、返還10周年に大規模デモが実施された自由度と、デモをコントロールできた管理手腕を内外にアピールする結果となった」と産経は書いたが、長年英国統治下で「民主主義制度」が身についている香港市民だから出来たことで、大陸だったらそうはいくまいに。台湾国民は真剣にその成り行きを注目しているに違いない。
 ところで皮肉にもこの日は、私が沖縄での任務を解かれて「復員」した日でもある。この日、当時の六本木・防衛庁で退官申告をして制服を脱いだのだが、当時の長官は久間氏であった。あれから既に10年たった・・・
 その久間氏は、初代防衛大臣におなりになったが、新進気鋭の安倍首相の“足を引っ張ること”夥しい。今朝の産経抄子は彼にはイラク戦争発言など「日米関係に波風を立てた“前科”がある」と書いた。今回は「原爆投下仕方ない発言」で、安倍首相を煩わせたが24万の自衛隊員の指揮者?として士気を沮喪させること甚だしい。
 産経新聞によると、フジテレビで彼は、今回の発言の真意は「会場で『油断したら日本も狙われる』と質問され、私が『我々も相手の意向を見抜かないとだめだ』と答えた例え話として紹介した。(第二次世界大戦末期)日本はソ連参戦を見抜けず、見抜いた米国は、日本に原爆を落としても終戦に追い込もうとした。ソ連を見抜けなかった我が国はまずかったが、今更そういうことを言ってみてもしょうがないと」話したのだと弁明し、原爆が落とされたのは仕方ないのか?との質問に対しては「そうではない。会場でも『原爆投下する必要はなかった』と言っている。そういう一連の過去の流れを、今になってこうすればよかったと言ってもしょうがないことだ。それで戦争が終わったのだから一つの諦めだ。発言を訂正する必要はないが、誤解を与えているところがあるとすれば、丁寧に説明しなければいけない」と答えたという。
 
 参院選を控えて、何としてでも安倍政権にダメージを与えようと躍起になっている「野党連合?」と、反日マスコミの“常套手段”を考慮すれば、いかにも軽率のそしりは免れない。今おかれている立場、国内情勢にあまりにも無頓着でうかつでは済まされない一件である。そんな情勢判断では、国家有事の際の判断も間違いなく『誤る』ことであろう。更に困ったことは、歳下の安倍首相が「誤解を与える発言は慎まねばならない」としながらも、「誰よりも原爆の悲惨さを経験しているのが広島、長崎の県民で久間氏もその一人だ。防衛相として核廃絶に大いに力を発揮していただかなければならない」と援護したのだが、当の久間大臣は島原市内で講演し「被爆者を軽く見ているかのような印象に取られたとすれば申し訳なかった。これから先は講演で言ったような話はしない」と陳謝したという。
 米国が我が国に対して原爆を投下した理由については諸説があることはご承知のことであろう。鳥居民氏の著書を始め、米国にもそれぞれの説がある。長崎県民としては、それらの説を精読し、自分なりの見解を持つべきであろうに、マスコミに叩かれるや「これからは(これについては)話はしない」とむくれるのは大人気ない。

 当時長崎県佐世保市の片田舎に住んでいた私は、父の仕事の関係もあって、小学生時代に良く長崎市について行った。みかんの産地である「大草」の駅で降りて、山頂に登ると長崎市は一面の焼け野が原であった。漸く「浦上」まで汽車が入れる様になったが、あたり一面瓦礫の山、そんな中に片足の鳥居や、長崎大学の煙突や、天主堂の瓦礫の中に焼け焦げたクリストを抱いた「ケロイド状」のマリア様が転がっていて、クリスチャンでもない母がその像に手を合わせたシーンが未だに目に焼きついている。クリスチャンの米国が、彼らが尊ぶ聖像に対して行った残虐行為が、小学生の私にも理解できなかった。
 アメ細工のように崩れ落ちている三菱長崎造船所は戦艦武蔵を建造した面影はなかった。交通機関がなかったので歩いて市内を廻ったものだが、焼け残った?永井博士の家を訪ねた記憶もある。焼け跡で蕩けたガラスを少し砕いて記念に持って帰ろうとして、表面が高温で焼けてブツブツが出来ている石ころで割ろうとしたがガラスは割れず、逆に石の方が二つに割れたことに驚いたものである。
 現役時代、こんな思い出話を部下にしたところ「それで司令は残留放射能にやられたわけですね」と私の頭を見て言ったヤツがいたが・・・
 当時小学生であった私は、子供ながらにこの兵器の残虐性を身をもって学んだが、たしか久間氏は私より一つ下の昭和15年生まれであった筈だ。何を“経験”したか知らないが、軍事のトップたるべく、もっと史実を学んで欲しい。そしてマスコミを恐れることなく、今後は堂々と信念を披瀝して欲しいと思う。

 土曜日は、新百合ヶ丘で講演をしたが、200人を超える熱心な聴衆の中に規律正しい青年達がいて、的を得た質問をしてきたから、15分も講演会が延びてしまった。
 講演は「日本を取り巻くアジアの国際情勢と安全保障」とのタイトルで、最初に元陸自の大先輩が、朝鮮半島情勢と核問題を述べ、次に私が台湾危機と南西方面防衛について話したところ、最後に若い学生が「日米関係のあり方」について質問してきたのである。
 終了後の夕食会では20人以上の方々が残って侃々諤諤の懇談になり、香港マカオを見てきた方の生の話や、知覧を研修してきた女性の感想文などを頂いた。
 一期一会、遅くまで会話が弾んだが、私は「田舎」に帰るべく、遅い電車を乗り継いで帰宅を急いだのだが、JR中央線の高架作業の影響で西東京方面はどのラインも大混雑、JRと私鉄が交差する某駅では、改札口が一箇所閉鎖されていたため、乗り換え客が「土石流」のように下りてきて、階段下へ押し戻されて目的の電車に乗れない有様。工事は前から予定されていたのだから、それを予想して通常は午後8時以降は閉鎖しているという通勤用の改札口を開けておけば混雑は緩和されたろうに、官僚主義で臨機に対応できない関係者の対処に怒りが沸いた。
 乱れに乱れたダイヤのせいで終電近くにやっと帰宅したのだが、この国は上から下まで全く「危機管理」が出来ていないと痛感した。こんなことじゃ2008年危機は乗り切れない・・・