軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

8月・・・「太平洋戦争」の月

 今日から8月、月初めの神棚清掃を終え、国産榊をお供えしてすがすがしい朝を迎えた。
 8月といえば「終戦記念日」、毎年恒例の「戦争物」番組や広告が氾濫する。今朝の新聞にも大きな広告が入っていたが、「何故開戦に踏み切ったか」「インパールの悲劇は何故起こったか」などという見出しは目に付くが、何故「太平洋戦争」と呼ぶのだろう?と私は考える。
 散逸していたフィルムを集大成したDVD/ビデオ全集だから貴重であり、映像の価値は十分あると思われるが、半藤一利氏の監修に興味がある。
 例えば第一巻「太平洋戦争への道」「何故戦争は始まったのか」のリードには、「満州事変での関東軍の独断専行と、朝鮮軍の無断越境、その後の国際連盟脱退も、軍部や政治家など一部の独断専行でしたが、政府はそれを追認します。日中戦争に踏み切りイギリス、アメリカを本格的に敵に回し石油の供給を止められた日本はついに対米開戦を決意します」とある。
 そして内容の見出しが「●満州事変。●5・15事件●第一次上海事変満州国建設●国際連盟脱退●盧溝橋事件●第二次上海事変大本営設置●観艦式●南京占領●武漢三鎮占領●国家総動員法●東亜新秩序声明●ノモンハン事件第二次世界大戦勃発●日ソ中立条約●独、ソ連に侵攻●日米の国力比較●南部仏印進駐●「ニイタカヤマノボレ一二〇八」と羅列してあるのだが、面白いことにこの見出しが開戦の背後に潜む「陰謀」を映し出していることに視聴者は気がつくだろうか?
 少なくとも●盧溝橋事件以降の動きは、欧州戦争を意識したソ連コミンテルンの謀略の様子が上手く現れているし、それに比べて、対米英戦が念頭になかった我が国の様子も浮き彫りになっている、と私は思う。
 広告の最終面に「戦争の実態を良く伝えている」「よくぞ作ってくれた」「父の生きた時代の情況を詳細に知ることが出来た」などという購入した視聴者からの、島国国民ならではの謙虚で素直な感想が掲げられているが、問題は今後どうしたらその悲劇を最小限にとどめおくことが出来るか、ということを過去から冷静に学ぶにある。「戦争を憎み、平和を希求したい」のであればなおさらである。
「戦争指導者が現実を直視して負けを認めて何故早期終結をしなかったか残念でならない」という感想もあったが、戦争はもとより、外交には相手がある。「自分が止めれば相手も止める(だろう)」と考えるのは典型的な島国感情であり「お人よし日本人」の発想である。拉致問題、対中外交がそうであろう。
 現在の外交交渉もこの島国的感情にとらわれているから、独りよがりで何ら国益に結びつかないのだと私は勝手に考えている。つまり、諸外国は「ヤード・ポンド」で物を測っているのに、一人我が国だけは「鯨尺、匁」で測っているようなものである。相手は「海千山千」、思い通りになろうはずがない。外交音痴といわれる所以だろう。

 私は今、平河総研のメルマガに毎週「大東亜戦争の真実を求めて」と題して、書斎に埋もれていた各種史料から手当たり次第に「メモ書き」として書きなぐっているが、当時も今も、国際情勢に関する関心の低さ、大陸内で起きている各種事象の「背景に潜む」落とし穴についての配慮と分析が、まったくと言っていいほど欠落していることに慨嘆している。
 有史以来「弱肉強食」殺し合いに明け暮れてきた大陸国家の現実的対応の仕方は、明治まで一人鎖国を続けて来られた島国日本の対応振りとは、月とスッポンほどの違いがある。「性悪説」と「性善説」の違いとでも言うか、お人よし日本人には想像もできない世界がそこにはある。かっての大戦に何を学ぶか!
 巡り会わせからこの時代に生き、そして好むと好まざるとに関わらず散華していった212万人を超える英霊に対して心から哀悼の意を表すると共に、今を生きる日本人として何をなすべきかを静かに問う、そんな8月であるべきで、一人感情的興奮とノスタルジアに陥っている場合ではなかろうと思う。