軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

憲法に身体をぶっつけて死ぬ奴はゐないのか!

 昭和45年11月25日に、作家・三島由紀夫が壮烈な死を遂げてから37年、今年も各方面で偲ぶ会が予定されている。
 私は当時浜松でF-86Fによる戦闘機操縦教官を務めていた1等空尉であった。学生訓練を終えて着陸して、ヘルメットを整備員に渡したとき「三島由紀夫が死んだそうです!」と聞いて驚きながらも、半信半疑であった。
 この日正午、市谷の東部方面総監部を訪問した三島由紀夫と盾の会の4人は、益田総監と面談中に不意に総監に襲い掛かり、総監部前に全隊員を集合させ、演説と檄文を散布するなどの要求をする。
 バルコニーに出た三島由紀夫は、「憲法を改正し自衛隊を国軍化することと天皇擁護」を訴えて演説するが、「暴漢侵入、総監負傷!」と伝え聞いて集合した800人の自衛隊員の罵声を浴びたのだが、かき消された彼の主張は「自衛隊が20年間、血と涙で待った憲法改正ってものの機会はないんだ。・・・自衛隊にとって健軍の本義とは何だ。日本を守ること。・・・お前ら聞けェ!・・・命を懸けて諸君に訴えているんだぞ・・・」というものであったが、野次とヘリの爆音にかき消され、隊員には届かなかった。三島は「諸君の中には1人でも俺と一緒に立つ奴はいないのか!・・・1人もいないんだな。良し!・・・見極めがついた・・・・・・」といってバルコニーを去ったが、「暴漢」と知らされて興奮していた隊員たちに、彼が高名な三島由紀夫であることなんぞ分かるはずはなかった。
 総監室に戻った彼は、上半身裸になり、短刀で割腹。いすに縛り付けられていた益田総監が「介錯するな!」と叫んだが、森田必勝が左後ろから日本刀を振り下ろし、その森田も自決するという悲劇がおきたのであった。

「今こそ我々は生命尊重以上の価値の所在を諸君に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。我々の愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に身体をぶっつけて死ぬ奴はゐないのか!」と彼は叫んだ。
 あれから37年、日本の現状はまさに彼が予言した通り、腐敗堕落の局地に落ちぶれている。

 連日学生を引き連れて遠州灘上空で空中戦や射撃訓練に明け暮れていた私は、これに衝撃を受けて「豊饒の海」など彼の著作を一気に乱読した。文学に無縁な戦闘機乗りの私には理解が難しい表現が多かったが、この国を堕落せしめている根源は「憲法だ」との実感はあった。しかし、いずれこの「占領憲法」は、日本人自らの手で日本に相応しい憲法に改正されると“信じて”いた。
 時の総理は佐藤栄作氏であり、防衛庁長官中曽根康弘氏であった。よど号事件、沖縄返還問題で、国内が揺れていた時期であったが、当時の自民党憲法改正の歌」を制定し、その普及活動に精を出していた?時期でもあったからである。
 あれから37年、今の日本の政情はどうだ。政治、経済、軍事、教育・・・それらを貫く「モラルの頽廃」は目を覆うばかりで、目標を失った社会全体が堕落のどん底にまで落ちてしまっている。

 平成9年7月1日付で、私は34年間務めた航空自衛隊に別れを告げたが、沖縄から「復員」して、首都東京の堕落振り、なかんずく青少年のモラルの頽廃に驚愕し、こんな連中のために命を張って励んできた自分が哀れに思えたものであった。いや、私は「復員」出来たからまだいい。志半ばで殉職していった仲間と御家族の心中を思うとき、心中穏やかでは居られなかった。
 そして退官後既に10年過ぎた。
 いまや防衛庁は、念願の「省」に移行し、米軍の病院跡地であった使い勝手の悪い古い六本木庁舎から、堂々たる「市ヶ谷台の新居」に移転した。
 ところがどうだ。GNPの1%枠をはみ出さないように、自衛官定期昇給分を差し置いても、装備品の充実を優先すべきだ!とする意見が出たくらい、ソ連の脅威に対する真剣な討議が続けられていた同じ組織とは思えないほど、この武装集団も堕落してしまった。器は立派になったが、ソフトは退化したのである!「歌を忘れたカナリア」ならぬ、「戦を忘れた集団」の末路?だともいえる。
 高価な航空装備品取引を餌に、ゴルフ・マージャン・カラオケ・焼肉に現を抜かし、甘い汁を吸っていた代議士始め官僚たち、更に驚くべきことに制服トップまでもが、堕落しきっていたことが国民の目の前に明らかになった。
 人間社会であるから、色々な噂が付きまとっていたのは感じていたが、これほどの“モンスター”に成長していたとは・・・しかも「軍学校出」が・・・
「奢る平家は久しからず」、このグループは、随分いい思いをしてきたようだが、関係者達はいまや毎日「首を洗って」怯えていることであろう。

 1872(明治5)年、陸海軍省が設置され、翌6年に徴兵令が布告された。「富国強兵」を合言葉に、我が国は列強の侵略に備えて軍備の充実をはかり、1895(明治28)年日清戦争に勝利し、3国干渉に堪えて「臥薪嘗胆」、1905(明治38)年、日露戦争に勝利した。維新から約40年であった。そして第1次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、国際連盟脱退、二二六事件を経て、1937年にシナ事変勃発、ずるずると長期化し、ついに大東亜戦争に発展、1945年8月の敗戦を迎えた。日露戦争の勝利から丁度40年であった。
 1950年に朝鮮戦争が勃発し、国内治安維持のための「警察予備隊」が生まれるが、防衛庁が設置され、陸・海・空自衛隊が創設されたのが1954(昭和29)年だから、あれから53年経つ。
 過去の経験則であった40年周期を基準とすれば、防衛庁自衛隊は既に13年も“長生き”している勘定になる。だから内部が「腐敗」するのも当然だといえば当然だが、その根幹には「軍備を放棄したいびつな憲法」がある事は明白である。

 退官後、都内某所で行われた高校の「防人の会」で、先輩である某閣僚経験者に、自衛隊の存在を不明確にしている「憲法こそ諸悪の根源だから、先輩!憲法に体当たりして欲しい!」と懇願したところ「分かった、貴様も吼え続けろ!」と固く握手して別れたことを思い出す。
 その半年後に、彼は憲法研究会を立ち上げたが、その後は憲法に体当たりすることなく「女性に体当たり」し、「政治家」ならぬ「性事家」に落ちぶれている・・・。
 今再び三島由紀夫の檄を再読してその偉大さが偲ばれる。25日に都内各所で行事があるようだが、私は日本を離れ、中国の研究者や軍人達と「対話」してくる予定である。
 タレント化した今の政治家達に、三島由紀夫の遺言を語って聞かせても無駄のようだから、国民の一人ひとりがもう一度彼の「遺言」を読み返してみるべき時なのかもしれない。

国際軍事関係論―戦闘機パイロットの見つづけた日本の安全

国際軍事関係論―戦闘機パイロットの見つづけた日本の安全

自衛隊エリートパイロット 激動の時代を生きた5人のファイター・パイロット列伝 (ミリタリー選書 22)

自衛隊エリートパイロット 激動の時代を生きた5人のファイター・パイロット列伝 (ミリタリー選書 22)