軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

続・「祈りの日」

 昨日の私のブログに対して、メールでご自分の体験などを送ってくださった方がいたし、コメント欄では聊か誤解している方も散見される。その後、S3曹は曹長に昇任して、立派に部下を指導しているが、たまたま平成17年の「飛行と安全」という部内誌に匿名で当時の心境を自主投稿しているのを見つけた。パイロットと整備員の関係についてよく理解できる文章だから、今回も長くなるが転載しておきたい。

【「良き同僚とすばらしき上司に恵まれて」
1、はじめに
 その年の4月、私が飛行前点検をし、責任を持って飛行した航空機が太平洋上で消息を絶った。たかだか四十有余年の人生経験であるが、最も辛くやるせない経験であった。しかしながら私を取り巻く同僚と上司に恵まれこの時期を乗り切ることが出来た。20年以上も前のことを懺悔を含めて書いてみようと思う。
2、航空機墜落?
 事故当日、事故機の機付き長は増加警衛勤務であったため私が機付き長の代行を務めることとなった。事故機機付き長は増加警衛上番前に私に対して、『飛行機をお願いします。特にカレンダーもありませんから・・・』といってくれたのに対し、『お前の飛行機なんて危なっかしくて、任せられても困るんだよな』などとふざけて言ってしまった。
 飛行前点検を終了し、午後になって何事もなく2ndピリオドを迎えていつもの通りプリタクシー・チェック、タクシーアウトし、テイクオフしていった。二度と帰ってこないと知らずに。
 その後アラート(注:スクランブル待機所)で液体酸素を補給したいというので、液体酸素を牽引して持っていき、補給後又牽引して持って帰ってきたのだが、このとき一瞬ではあるが牽引車が物凄い振動をして恐怖を感じた。この原因は私のスピードの出しすぎなのか、整備上の欠陥だったのか不明である。ただし、いつもと同じスピードであったし、これ以後このような事象にあったことがない。
 アラートから帰ってきた私を待っていたのは『お前の飛行機がロスト・コンタクト(注:行方不明状態)している』という悲鳴のように叫んでいる列線班長であった。私は何をいっているのか状況を把握できなかった。訓練を終了し又中止し帰ってきた飛行機が、続々とランプインする中、私が飛ばした飛行機のところだけは空いていた。このころになってやっと状況が把握できてきた。飛行可能時間を2時間30分と決められた。この時間以上は物理的に空中には浮いていられない時間となる。この時間を終えた時点で否応なく『墜落』ということになる。捜索機がひっきりなしに飛び、最寄の救難隊からは救難機が空域に向かっていた。
3、航空機墜落!
1)そのとき同僚は 
 飛行可能時間を過ぎた。足ががくがく震えた。『飛行機って墜落するの?私の飛行機に限ってそんなことはない!』そんなことを自問自答していた。次に何をすればよいのか、何を準備すればよいのか頭の中が真っ白で考えもつかなかった。そんな中、同僚は私のPRカード(飛行前点検の手順書)が最新の状態になっているか確認をしていた。このような時に警務隊から証拠物件として押収されることを知らなかった。更にPR時にどのような経路で誰がどこを見てというチャートを作り始めていた。
 夕方になり夕食の時間となるが、とても食事の摂れる状態ではなかった。が同僚は厳しい表情で、かつ厳しい口調で『これから警務隊による取調べがあるかもしれないってのに、飯も食わないで拷問に耐えられんぞ』と言って、ふせっている私の後襟を掴んで無理やり食堂に連れて行き、強制的に食事をさせられた。その後確かにこのときに食事を摂っていなかったら、精神的に参っていたかもしれない。
2)そのとき後輩は
 食事から戻り、情報収集のためにオペレーションに行った。丁度救難機からの無線が入ってきた。『救命浮舟発見捜索します・・・』のスピーカーからの声に『助かった!』と私は声に出して喜んだ。しかし程なくして『誰も乗っていません』更に『Gスーツの一部と思われるもの発見、形式JP・・・、製造番号74・・・』救命装備員が帳簿を持って駆けつけ、照合し『間違いありません』という重い声。追い討ちをかけるように『肉片を見つけました。大きさは縦30cm、横40cm』という無線が入った。私は完全に打ちひしがれその場にうずくまってしまった。後から後から涙が出る。嗚咽が漏れてしまう。
 このとき飛行管理員が声を掛けてきた。この飛行管理員は、酒乱の気があり隊長を始め団司令からも一目おかれる『強者』であった。しかしこのときは違っていた。私に向かって真顔で『整備員が一番辛いなんて勘違いしないで下さい。一緒に飛んでいた編隊長、隊長、同期みんな辛いんです。一人だけ情けない顔しないで下さい』といわれ改めて周りを見る。隊長は腕を組んで無線機のスピーカーをじっと見つめている。墜落する直前まで一緒に飛んでいた編隊長も腕を組み天井の一点を見据えたまま身動きしない。後輩の一言で周りの状態が見ることができた。それまでは、まさに自分の世界に入っていたのである。
3)その時上司は
 当日夜も更けた頃一端解散となり、終礼を行っていたところに隊長が入ってきた。『整備の諸君が一生懸命に整備した機体を壊してしまって申し訳ない』といってたところに今度は群司令が入ってきた。『当該機の気付き長は誰だ』といきなり切り出した。『私です』一歩列外に出た。『今の感想を言って見ろ』の問いに、私はただ涙を流しているだけだった。群司令に対する腹立たしさではなく、操縦者に対する感情でもなくただ涙が出てきた。そんな私に対し群司令は『飛行訓練終了、全機格納終了なんて判で押したようなものばかりだと思ったか。実戦になったらこのような状況が当然のように続く。全機帰ってこないことだってあり得る。そんな場合でもわれわれは屍の上を乗り越えてでも前進するんだ。今度又お前には機体を当ててやるからそれまではプラモデルででも我慢しておけ』と強い口調で言った。
 後日談になるが、群司令は団司令に対し整備員に責任問題が波及しないように何度も足を運んでくれていたそうである。時には涙ながらに嘆願していたそうである。それを聞いて感謝の念で一杯になった。
4、慰めは簡単であるが・・・
 事故後2〜3日は、夜眠ることができなかった。私の点検整備にミスはなかったのか、酸素系統の点検ミスで低酸素症に陥ったのではないか、無線系統のコネクトの不具合を見逃したため僚機のアドバイスが届かなかったのではないか、などとどんどん疑心暗鬼に陥っていく。寝入った頃に操縦席からの光景が目に浮かび、更に雲から出た瞬間海面がせり上がってくるような錯覚を起こして飛び起きる。自分で息を吸うことはできるのに吐くことを意識しないと浅く吐いているために息苦しさに目が覚める、寝ながらにして過呼吸症の状況となる。
 このとき多くの人が私に慰めの言葉をかけてくれた。とても心が癒された。人が苦しんでいるときに慰めの言葉をかけるのは大切である。しかし、苦しんでいる人に本当のことを辛辣に言ってやることは非常に難しく、精神的に強くなければできることではない。我々組織で働く人間にとってこのことは重要なことである。ただ情に流され同情するだけでは事故後の組織の前進はない。この墜落事故の時に私の周りには良き後輩、先輩、および同僚と、すばらしき上司に恵まれていたためショックからの立ち直りが早かったのではないかと思う。
5、最後に
 操縦者の遺体の収容および事故機の残骸の回収に救難隊海上自衛隊および海上保安庁の協力に敬意を表したい。機体の殆どは海没したため回収できなかったが、主翼および垂直尾翼などのハニカム構造のものが滅茶苦茶になって一部ではあるが回収された。墜落の衝撃の物凄さを物語るものであった。その中で当日の飛行記録および整備記録の2枚だけが綺麗に回収された。何十枚の記録用紙の中、中にはビニールでコーティングされていたものもあったのに、ただの1枚づつの紙である当日の飛行記録と整備記録だけが回収されたのである。金属が引きちぎられる衝撃の中でである。これは操縦者が私の無実を証明してくれるためにやってくれたのではないかと思いたくなり、感謝の気持ちで一杯になる。又、同じくらいの無念さを感じるのである。この気持ちは20年近くになる今でも変わらない。これからも変わらないであろう。操縦者のご冥福を祈る。】


そしてこれが最後のページに掲載された彼自身が書いたイラストである。

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