軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

恐るべし、言葉狩り!

 中山大臣が「失言」の責任を取って辞任した。「またか!」とこのお国の政治の次元の低さにため息が出る。いや、メディアの常套手段「言葉狩り」にあきれるとともに背筋が寒くなる。
 今朝は7時に起きて新聞に目を通し、何気なくTVをつけると「朝ズバ!」をやっていた。地上波に関心がない私は切り替えようとすると、中山元大臣ご本人が「緊急生出演」とのこと。中山氏が、言い足りなかったところを時間内に「説明できる」チャンスを与えた“チャンネル6”は「言論の自由」を尊重するらしい、と感心して見ることにしたのだが、なんと、出演者は司会のミノモンタは別にして、中山氏を4人が囲んで責めたてるという、何とも見苦しい「詰問会」で、日教組の常套手段「教員室」の再現か?と思ったほどであった。
 中山氏はたった一人で「被告席」に座っていて、攻める側は山岡民主党政調会長を筆頭に4人だから卑怯である。数を頼んだ?のか今“話題の毎日新聞”記者らが嵩にかかって攻め立てるのだが、孤立無援の「確信犯」中山氏は堂々たるもの、私が審判だったら中山氏に軍配を上げたであろう。ここで分かったのは、政治の世界では「本音」を言ってはならないことで、大臣ともなれば「本音を隠して建前だけを言うべし」という4人の結論だった。これが「民主主義」を標榜する政治家や言論人の姿かと思うと、以前、中国の研究者がいみじくも私に言ったように「日本こそ社会主義国」の典型だと思う。
 民主党代表選挙では「言論が封殺されていた」と私は感じたから、さもありなんと思うが、こんな“民主”党という「建前看板」を掲げた政党が政権をとった暁には、建前だけの国になりかねない危険さを感じた。しかもこの政党の「陰の内閣」の構成を見ると、法務、文科省など枢要な大臣「予定者」は皆「旧社会党出身者」だから、推して知るべしである。有権者の中には「政権交代」などと、いかにも先進国並みの民主主義手法を期待する向きも多いようだが、身近な台湾を見るが良い。
「馬」氏のジョギングスタイルが「たまらなくセクシ〜」だと一時的興奮で女性たちが競って馬氏に投票したそうだが、その結果、100日経った今では「馬上好(馬英九が総統になればすぐに経済は良くなる)」と言ったのに経済は失速。「何も公約が守られていない!」と支持率が71・3%から36・9%に人気凋落、逆に不支持率は22・5%から57・0%に上昇、8月30日には台北で「30万人が馬英九を糾弾するデモ」まで発生したという。しかし、時既に遅し!その裏では着々と「大陸統一事業」が進んでいて、「台湾」という「正名」もどんどん「中華」に戻され、やがて金門島には大陸と橋がかかる。 これほど衆愚政治の陥穽を示して余りある例はないから、日本の有権者もよく観察すべきである。一時の興奮で投票した結果、気がついたときは既に遅し!余程のことがないかぎり政局は変えられない。第一次大戦に敗北して塗炭の苦しみを味わっていたドイツ国民が、威勢のいい演説をするヒトラーに興奮して、ナチスに“合法的に”政権を与えたのだったが、結果はどうであったか?

 田舎の山の中から天下を見渡していると、どうもこの国も同じ轍を踏み出そうとしているようで危険この上ない。ドイツや台湾の様になってから、いくらデモをしても無益であることを肝に銘じたほうが良い。「民主主義」「言論の自由」を標榜するジャーナリストにとっては特にそうだと思うのだが、「朝ズバ!」で中山氏を「糾弾」した政治家の山岡氏を除く3人にはその意識は全くなさそうに見えたことが恐ろしい。
 彼らが中山氏の「言葉じり」をとらえて陰湿な「言葉狩り」をしているという意識もないのは更に恐ろしい。尤も、そんなことは十分意識して発言しているのだとしたら、この方達こそ日本列島に巣食う「異民族」の一員ではないのか?


 それはそうとコメント欄に≪日教組の元委員長・槙枝元文(まきえだ もとふみ)氏≫の≪「金正日総書記誕生六〇周年祝賀」に寄せて≫という文が寄せられていた。
【わたしは訪朝して以降、『世界のなかで尊敬する人は誰ですか』と聞かれると、真っ先に金日成主席の名前をあげることにしています。(中略)主席に直接お会いして、朝鮮人民が心から敬愛し、父とあおぐにふさわしい人であることを確信したからでした】などとおべんちゃらを言って、【1991年には、長年に渡る日朝友好親善への貢献により、北朝鮮から国際親善賞第1級の勲章を授与されている】とあったが、Wikipediaには【1921年3月4日生まれ。日本の教育者、労働運動家。元日本教職員組合議長。元日本労働組合総評議会議長。青年学校教員養成所(後の青年師範学校)卒業後、1940年に岡山県都窪郡の早島青年学校に教師として赴任。1942年から終戦まで召集され、終戦後1946年同校に帰任。翌年日本教職員組合に加入し、1962年に日教組書記長に選出。1971年から1983年まで日教組委員長、1976年から1983年まで総評議長を勤めた。現在、日中技能者交流センター会長及び朝鮮の自主的平和統一支持日本委員会議長】と出ているが、その中に「1942年から終戦まで召集」とあるものの詳細は不明である。

 そこで以前私が調べたことを書いておこう。彼の軍隊時代の階級が【陸軍中尉】となっていたから私は彼に興味を持ったのである。つまり、旧陸軍にはこんな階級呼称は無く、「陸軍歩兵中尉」とか「砲兵中尉」などと職種がつくのが正式だからである。ところが彼は終戦直前に樺太・豊原に司令部があった「憲兵中尉」だった、とシベリア抑留体験者から聞いたので驚いた。
 しかも、守備していた88師団は、戦闘下にないため「予備軍」的存在で、樺太では航空機や食糧を本土などへ送る「兵站」業務だったそうだが、南方で苦戦している状況が頻々と入り敗戦が迫っていることを肌で感じていたという。そんな最中に彼は札幌に業務と称して出張したそうだが、ソ連軍の侵攻が始まり、直ちに帰隊せよとの命令を無視?し、札幌で終戦を迎えてそのまま復員したそうで、シベリアに送られた方々の怒りを買っていたのである。中尉たる将校が、部下を見捨てて自分だけ復員したとは思えないが、このことをあるジャーナリストに言ったところ、詳細に調べた結果が雑誌などに紹介されたことがあった。それが原因だったかどうかは知らないが、その後彼は日教組委員長を辞めたはずである。そしてそれは「組合員」達が最も忌み嫌っていた「憲兵」という職種を“隠していたこと”に対する反発があったからだ、と後で聞いた。
 彼は「自伝」を出しているそうだが、そのあたりの記述はどうなっているのだろう? 
彼の著書を買ってまで確認する気はないので、どなたか読んだ方がいたら教えて欲しいものである。
 とまれ、こんないい加減な「肩書き」で戦後のどさくさを切り抜け、世渡りをして出世していたのだとしたら、金日成に帰順する行為よりも卑怯極まりない。
 堂々と「官姓名」を名乗った上で責任者になったのならいざ知らず、隠していたのであれば日教組組合員達もさぞがっかりしたことだろうし男として情けない。
 戦後の混乱期だったから、誰も確認できないままにその後も適当な肩書きで「身分を隠して」生き抜いた方々がいたとしても不思議ではないが、「振り込め詐欺」が多い現在、何と無く一般国民の詐欺に対する戒めになりそうな気はする・・・

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