軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

善人で国民の安全を守れない国家よりは・・・

 今朝の産経3面に、田母神前空幕長のインタビュー記事が出ている。
「自国を悪く言う(外国の)将校いない」「村山談話言論弾圧の道具」という見出しだが、短い中にも彼の意図するところが多々出ている。
「このような大騒ぎになって解任される事態になるとは全く予想もしていませんでした。判断力がなかったといわれればそうかもしれません」と言うのは彼の正直な感想だろう。 創設以来50年余、ただひたすら諸制約を克服しつつ「防衛任務」についてきた者の心情が良く出ている、と思う。
 歴代総理は観閲式で「誰かがやらねばならない崇高な使命に邁進せよ」と訓示してきたが、その「崇高な使命」に命を懸けて、予算を切られてもただひたすら“ボロは着てても心は錦”で耐えてきた半世紀、1800人にも及ぶ殉職者を出しつつも、自衛隊は屍を乗り越えて踏ん張ってきた。
 PKOや国際貢献で、「消火器ならぬ小火器に限る」とか、「機関銃は一丁まで」とか、およそ非常識、非人道的な論議のままに、“危険では無い”「紛争地帯」に派遣され、3自衛隊とも、それなりに貢献し、国民の理解も得られてきた・・・と受け取っていたに違いない。だから「幹部教育資料程度」の論文で、大騒ぎになるはずはない、と考えたとしてもおかしくはない。
 しかし、実際は、足下はガタガタで固まってはいなかったのである。勿論、国民の多くは信頼していてくれているが、マスコミは「自衛隊を叩くのが使命」だと今でも考えているのであって、そのマスコミが“怖い”官僚と政治家は「それに従う」という現実を見誤っていた、いや、その現象はますます酷くなっていたということだろう。
 自衛隊は創設以来「四面楚歌」、正しく評価してくれるのは皮肉にも、海外に派遣されたときの「派遣先の外国人」くらいである。悲しいことに、自国民から軽蔑?され、袋叩きにあっても、じっと耐える以外にはない。自衛隊が「耐えられない」ということが何を意味するか!これほど危険なことはない。故に私の現役時代には、武器を持つものの心構えを説き、日教組教育を受けて育った若い隊員たちを教育し続けてきた。
『ペンは剣よりも強し』というが冗談ではない。剣が「鞘に」収まっているという条件があればこそ、それは成り立つのであって、思い上がって鞘から抜かせてはならないのである。どうしてそれがマスコミには分からないのであろうか?
 インドのムンバイ事件(CNNではウォー・オン・ムンバイと表示している)を見ても分からないのだろうか?テロ集団が武器を持つからこの種事件は絶えないのである。今日、各国軍隊は勿論、武装集団の幹部(将校)は、「正義に基づく武器使用」を「徹底させる教育をするのが使命」でもある。特に民主主義態勢下においては。
 シビリアンコントロールを言う前にその根本を日本の政治家達は学ばねばならない。

 更迭への思いは「日本は侵略国ではない」と言ったら「『日本は政府見解で悪い国になっている』との理由でクビにされたこと」だというがまさにそこである。
 自衛隊は「悪い国」「悪い先祖」「悪い政治家」「悪い官僚」「悪いマスコミ」を守るために存在する!というパラドックス。「良い国」「良い先祖」「良い政治家」「良い官僚」「良いマスコミ?」を守る存在ではない、という事実が浮き彫りになったのだから、これほどの笑い話はあるだろうか?

 アパグループのワインの会で同席した鳩山民主党幹事長は、田母神氏に「違和感?」を覚えて中座したと新聞で語ったが、「全くのウソですね。鳩山さんと相当の時間、楽しく懇談させていただきました」というが、事実だろう。他に出席者もいることだし、テープにも記録されている筈だから、鳩山氏の「逃げ」は実に見苦しい。
 審査委員だった中山泰秀代議士の秘書・山本秀一氏も、「零点をつけた」とTVで逃げたが、彼も卑怯者である。国会議員を目指しているそうだが、お二人には「うそつきは泥棒の始まり」という言葉があることをお教えしておこう。

 文民統制の意味を理解していないのは、今に始まったことではないから省略するが、田母神氏は「自衛官歴史観や思想信条を政府見解に合致しているかどうかチェックする」のは「軍隊を解体すること」だとし、「きっと中国や北朝鮮は大歓迎している」というが、そのまえに「そんなロボット集団」が巨大な武器を持って統制に反して無表情で「親分」に襲い掛かる、そんな映画があったような気がするが、そのほうが私には恐ろしい。自業自得といえばそれまでだが・・・

「使命感とは、自分達がやっていることが正義なんだ、という気持ち」で、「この国のために命をかけることが正いんだという気持ちがないと軍は動けない」「その根本には愛国心がある」「この国は残虐でろくな国じゃなかった。お前達は力を持ったらすぐ悪人になるんだ、といわれたんでは使命感は生まれようが無い」「そういう人たちは自分自身が信用できない人なのではないでしょうか。或いは文民統制に自信がないのかもしれません」とは“図星”だろう。実はシビリアンの殆どが“外国人”じゃないのか?

 最後に彼は「善人で国民の安全を守れない国家よりは、腹黒くてもいいから国民の安全を守れる国家の方がよい。性格が良くて無能な政治家と性格が悪くても有能な政治家なら後者のほうがよい」と言ったが、全く同感である。

 しかし敢えて言うとすれば、彼はここでも「判断力」が希望的に過ぎる、と私は思う。今の日本の政治家にはその両者は殆ど存在しないと退官後に痛感したからである。存在するのは「腹黒くて、性格が悪く、国民の安全など鼻から守る気はなく、無能を他人のせいにして逃げ回る」、そんな政治屋しかいないのでは?と。

 はるか以前、テロ特措法成立を願う国民集会が議員会館で開かれた時、私如きも招かれて意見を述べさせていただいたことがある。そのとき私はインド洋に派遣される隊員たちの行動基準がないことを責め、「己の無能を部下の血で贖うな!」と結んだが、控え室で他の先生方から「今の若い政治家達には“贖う”という意味が分かったかな〜」といわれて絶句した経験がある。そのときに出席していた若手議員たちが今や“大臣”である!


 ところでインタビューの最後に田母神氏は、「女房には『俺は野垂れ死にするから覚悟せい』といいました」とある。辞表提出を最後まで拒否した彼の足下には及ばないが、私も昭和60年の『JAL機墜落事故』で、マスコミに反論した後、一新聞記者に懐柔?された上司から『反論文の訂正を強要され』拒否したものの、結果的に組織に迷惑をかけたと考えて『辞表』を書いたとき、女房に『良かれと思ってしたことが、逆に組織に迷惑をかける結果になったから責任を取って制服を脱ごうと思う。ついてきてくれるか?」と電話した体験を思い出した。『野垂れ死ぬ』とは考えず、明日から『どこの職安に職探しに行こうか?』と漠然と考えたものである。辞表は直属上司の課長が握りつぶしたため、私は退官まで生き恥を曝したが、とまれ、今回田母神氏は自衛隊が如何に「政争の具」としてしか扱われていないか、実態の一部を国民の前にさらけ出してくれた。
 おそらく心ある国民の『一部』は、君を野垂れ死にさせてはくれまい。すでに「退官」後一ヶ月、正々堂々と「所信を」述べ続けて欲しいと思う。

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