軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

人命救助から被災者救援へ

震災地域では、悲喜こもごものドラマが続いている。
人の運命の不思議さを思い知らされるが、奇跡的に救出された南三陸町長から、防災センター2階で最後まで拡声器で避難を呼びかけていた「女子職員と警察官」の殉職を聞いた時、樺太生まれの私は終戦時に樺太に不法侵入したソ連軍の情報を伝え続けて自決した真岡電話局女子局員の勇気を思い出して涙が止まらなかった。


日清戦争に出征した木口小平歩兵二等卒は中隊の喇叭手を務めていた。成歓の戦いで戦死たが「死んでもラッパを離さなかった」と称えられたが、歩兵一等卒に進級しなかった。
真岡の女子局員たちの行動は教科書にも書かれていないし、映画「氷雪の門」も左翼の抵抗で上映制限され国民はあまり知らない。
歴史はこのような「無名の戦士」たちによってつくられるが、記録にはほとんど残らないのである。


ところがこの最後までマイクを離さなかった女性のご家族の心中はいかばかりか、と案じていたら、偶然TVで母親が「娘は最後まで仕事をしていました…」と言ったのでこの母にしてこの娘あり…と涙が噴出した。今回の震災ではこのような責任感溢れる人々のドラマは枚挙にいとまがないことだろう。日本人魂はまだまだしっかり根付いている、と勇気づけられた。


福島原発の処置は後手後手に回って、危険水域に達しつつあるようだが、現場では木口小平にも劣らない努力が続けられているようだ。彼らの奮闘を期待するとともに、無事を祈りたい。

≪危険をも顧みず…産経新聞から≫

≪オーラが失せた指揮官…同≫


大東亜戦争末期、海軍はついに「特別攻撃隊」を編成せざるを得なくなり、悩みぬいた大西瀧治郎長官は、23日、24日夜と一睡もせず悩みぬき、25日に涙を飲んで関行男大尉らを前に「国の危急を救う者は大臣でも大将でもない、君たち若人だ。国の安危は一に三十歳以下の青年の双肩にかかっている」と、決して扇動する口調ではなく訓示した。立会した幕僚は「若き心の琴線をゆすぶらずにはおかない、一句一句肺腑をついて出る言葉だった」と回想している。

≪大西瀧次郎伝から≫

そして終戦を迎えた大西は「特攻隊の英霊に日す。善く戦ひたり、深謝す…」との遺書と「これで良し、百万年の仮寝かな」との辞世を残して責任をとって自決した。
子供がなかった大西中将は残す淑恵夫人を気遣い、身の振り方を示した後「すがすがし、暴風の後に、月清し」の辞世を残した。
ご夫妻に子供代わりにかわいがられていたのがフィリピンから従卒として仕えた山本長三兵長で、松島基地のそばに住んでおられた。
基地広報館に大西夫人から頂いた制服を寄贈されたこともあり、よく私の官舎に遊びに来られたものである。3年前に亡くなられたがご子息は被害を受けられたのではないか?
官舎も水浸しのようだが、広報館の大西中将の制服がどうなったか心配である。


ところで震災から早や5日過ぎた。今やらねばならぬことは、捜索・人命救助に並行するとともに被災者救援を増やすことである。
国家非常事態に備えてコメも石油も備蓄してあるはずだから、現場や都心部が混乱するのはおかしいが、多分それは“政治主導”で各省庁が連携していないからではないか?

一刻も早く支援物資を搬入するルートを確立すべきであろう。マスコミの情報を活用して、適時適切に空輸するなり、せっかく助かった命を失うことがないよう配慮して欲しいものである。


昨日から、現地入りしたメディアの一部が避難所に避難している方々をTVで紹介し始めたのはいい判断である。国民に「伝える」任務と同時に、わずかでもいいから被災者救援物資を運ぶなど、被災者の声を直接聞ける特性を生かした行動をとってほしい。もちろん“古?”新聞でいいから、震災記事が載る印刷物を避難所に届けてほしい。“傍観者”であってはならない!


昨夜は、静岡でも地震、我が家も震度3〜4であったが、戦時中の空襲体験、防空壕避難体験を持つ私には緊急事態対処は一応出来ている(つもり)である。
自衛隊、米軍、警察、消防などが一元指揮の下、一刻も早く、病人のケア、赤ん坊のケア、そして医者や看護婦さんの過労防止、燃料、食糧配給体制を確立し、助かった方々をしっかりとケアしてくれることを祈っている。
最後に今朝の佐々淳行氏の産経「正論」を添付しておきたい。