軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

復旧始まる

交通網が復旧するのは、人々を勇気づけるものである。仙台空港が一部航路を再開したのはその象徴ともいうべきで、大いに喜ばしい。
しかし、メディアの大半はその裏にあったことを意識的に?報じない…と思ってたら今朝、テレ朝が再開の第一歩は米軍によってはじめられたことを報じ、海兵隊員にインタビューしていたから“驚いた”。
昭和60年、JAL機の御巣鷹山事故報道と様変わりしたからである。
沖縄は今でもそうだが“民間”飛行場を米軍機や自衛隊機が使用することを拒んでいるし、雫石事件ではメディアは一斉に“民間航空路”を自衛隊機が我が物顔だと書いた。当時から「民間航空路」など存在しなかったのだが…。しかしこれからはこんなでたらめ記事は書けなくなるだろう。

仙台空港一部再開=産経から≫

今回、米軍が仙台空港を最初に「整備」したのは、戦域で航空優勢を確保するのは戦術の第一歩だからである。
目標を選定し偵察し、特殊部隊員が落下傘降下して所要を見積もり、その要請で本隊が着上陸して飛行場を奪取、または開設する。
ガダルカナル島攻防戦では日米がヘンダーソン飛行場を奪い合ったし、わが軍も開戦当初は「パレンバン」「メナド」に落下傘部隊を降下させて、油田を確保した。
今回は「敵の反撃」はないから米軍の作戦は容易だった。


私が2年間務めた松島基地は、宮城県沖地震に備えた要の基地だったから、地震の第一報で救難隊はじめ被害状況を上空から偵察することとし、地上要員は輸送機など救援部隊の着陸態勢を維持するため滑走路の確保と通信施設の維持、並びに周辺市町村への災害派遣準備を最優先することにしていたが、フィールドエレヴェーション(標高)はわずか7ft(約2m)しかなかったから、津波が来たらとても耐えられないのは明白で、時間に余裕があれば空中退避させるしかなかった。
今回、福岡に移動していたブルーインパルスの機体だけでも確保できたのは僥倖だった…。
案外報じられていないが、水が引くや隊員たちは手作業で滑走路を復旧し、仙台空港と共に被災地全域を担当する補給基地として活躍している。


震災から1か月以上たって、東北各地は地元の力で復旧が始まっている。そんな中、メールに次のような記事が送られてきたから、すでにご承知だろうがご紹介しておく。

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東日本大震災】「ひとりになっちゃった」家族4人失った自衛官、思い秘め任務 
2011.4.11 14:14   (4月11日 産経新聞夕刊)


 津波で家族4人を失いながら、被災地の駐屯地に寝泊まりして任務に没頭する44歳の自衛官がいる。がれき撤去など危険な任務に当たる隊員を後方支援する仕事に終わりはない。「これ着てますから」。表情を変えず、迷彩服を軽く触った。
 宮城県内の陸自駐屯地。朝食をめぐって口論になった妻(42)から「まだ怒ってる?」と電話があった。「怒ってないよ」。数時間後、大津波が沿岸地域を襲った。すぐ緊急出動する車両や重機の準備に取りかかり、矢継ぎ早に指示を飛ばした。家に戻る余裕はまったくない。義父(76)を車いすに乗せてみんなで避難したはず。そう信じていた。

 翌朝、出動中の車両を確認するため駐屯地を出た。家があった方向には何もなかった。

 避難所名簿に名前がないことを知り「だめだ」と分かった。仕事の合間を縫って安置所や役所に掲示されたリストを見て回り、また任務に戻る。娘(14)の遺体と対面できたのは地震から10日後。中学校のジャージー姿で、顔は穏やかだった。

 妻と義父、義母(68)も同じ安置所にいた。家から1キロ以上ある場所で、4人ばらばらで発見されたのだと知った。妻と娘は秋田市の実家に運ぶことにした。

 たまの連休に一緒に帰省するのが楽しみだった。仏間に並べた2人のひつぎ。「なんでこうなっちゃったんだろう」。初めて泣いた。

 任務は多忙を極めている。いつも通りに振る舞う自分に、周囲も自然に接してくれる。いつか、落ち着いたら駐屯地の近くにアパートを借りるつもりだ。

 「誰もいない部屋に帰るようになったら、ひとりになっちゃったな、と思うんでしょう」。静かな声。ヘルメットには「まげんな(負けるな)!」の文字があった。
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何とも胸が痛む。しかし彼はきっと立ち直るであろう。老兵はそう信じている。


今朝のテレ朝で、岩手県陸前高田で味噌・醤油作り200年以上の老舗である「八木澤商店」のその後が放映されていた。
今月4月1日付で、壊滅した店を父から受け継いだ弱冠37歳の河野通洋新社長が二人の女性新入社員に向かって「全てを流されトラック2台しか残っていない会社だがそれでもいいですか?」と迎え入れた。ユーモアあふれるこの若い社長のもとで、八木澤商店は必ずや復興するだろう。リーダーとは彼のような存在を言うのである。悲しみに打ちひしがれている部下や仲間たちを奮い立たせる何かを持つ、真のカリスマ性が必要なのである。

インターネット上には、トラック2台のほかに「八木澤商店のホームページ」がまだ残っている。
そこには次のような経営理念が掲げられている。 
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■食べることは、生きること
 ゆっくりと長い時を経てライフスタイルが大きく変化しても、いつもそばにある日本古来のしょうゆとみそ、そして漬物。
私たち八木澤商店は、約200年前の文化4年に創業以来、おかげさまで多くの方のご支援を戴き、食を通じ健康をお届けしております。
  現在、多くの食べ物から心が失われました。食べ物をつくらせていただく心、食べ物を商わせていただく心、そして、今日も食べ物を食べさせていただく心。
 食べることは、遠い先祖様から受け継がれてきた生命を生かすことへの儀式であり、大いなる存在の愛であると思います。
私共は、常に大地への感謝の念を忘れず、病んだ土をもう一度健全にすることから始まる土づくりを合言葉にしております。
これからも、伝統を大切にしつつ常に新しい味造りへのチャレンジを忘れず、命を育み、未来へとつなげるために安全、安心、おいしさの追求に全力をささげる所存です
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大地と自然の恵みに感謝していたはずの“彼”は、今回の災害を前に「自然の力だから仕方ないが、でもこの野郎〜、と怒りを感じた。そして必ず立ち直ってみせる!」と誓ったという。
がれきの中から200mも流された仕込樽を見つけた杜氏が、200年の伝統を伝えるDNAを持った「もろみ」を見つけて保存した。
ホームページには、
≪安全で、醤油に適した原料を求めてたどり着いたのが、岩手県産丸大豆と県産の南部小麦、長崎県五島列島の塩でした。『なぜ私が地元の大豆や小麦を使うのかというと、自分で畑に見に行けるからです。見に行った時に、農家の人と話や情報交換が出来、自信を持って原料に使えます。』
これらを原料にして作ったもろみを、杉の桶で2年かけて熟成させ、江戸時代から伝わる『古式てこ搾り法』で、じっくりと時間をかけてもろみを搾ります≫
と前社長が語っているが、その精神は必ず甦るだろう。
復興第一号の「やません製品」を予約したいと思っているが、案外早く復興する、という私の予感は当たると思う。

空虚な虚言を羅列して、国民の血税をもてあそんで生きて来ただけの方々と、大地に根を張って、たくましい実業を伝え伝えられてきた人々との決定的な違いが、今回の震災で浮き彫りになったように思う。私はこれを「先祖がえり」だと書いた。

≪10年前のきょ“ぞ”う=13日の産経から≫


私は、生きるための手段、“職を身につけている”人々の決断力と行動力は、机上の空論をもてあそんできた者たちとの間には決定的な違いがあることを、34年間の自衛官生活で身につまされてきた。
土壇場での危機を、ベテラン空曹たちの現場の知恵、つまり“現場合わせ”手法で何度救われたことか。旧軍は「下士官で持っていた」と評されるゆえんがそこにあると私は痛感してきた。
世界最強の軍隊は、指揮官は米国、幕僚はドイツ、下士官は日本、兵士はロシア…で構成された軍隊だろうと言われるのもそこにあるのだろう。


今回の震災では、全国民、いや、世界中の人々からの温かい支援が寄せられた。しかし、復興に立ち上がるのは被災した方々自身である。
白銀の世界に長く閉じ込められ、春の兆しを敏感に感じとるや閉じ込められていた気力が一気に噴き出す。そんな東北人特有の回復力を私は信じて疑わない。
それを端的に示した青森のねぶた祭りは“自粛”されないと決まった。様子をうかがいつつ「右へ倣い」しないのがいかにも東北人らしい!
東北各地の活力が甦ることを信じ、大いに期待したい。

真の指導者とは (幻冬舎新書)

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