軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

素朴な疑問:暴力団排除条例

毎日新聞は「暴力団排除条例 包囲網を生かしたい」として、≪暴力団を市民生活から排除する仕組みが出そろった。暴力団排除条例が1日の東京都と沖縄県を最後に全都道府県で施行された。人気タレントの島田紳助さんが暴力団関係者との交際を理由に芸能界を引退したことは、社会に少なからず衝撃を与えた。
暴力団は社会の隅々に根を張る。祭礼や興行など市民生活に近い場所で接する機会もあるだろう。条例は、社会全体で闇勢力の力をそぐことを目指し、事業者や市民の「黒い交際」にも目を光らす。
公共工事からの排除、学校周辺での事務所開設の禁止、利益供与の禁止などが、各地の条例に共通する内容だ。違反者には勧告や、「密接交際者」として名前を公表される措置が規定され、罰則もある。
東京都の条例では、祭礼などの主催者が行事の運営に暴力団を関与させないよう努めたり、事業者が契約時に暴力団関係者でないことを確認するよう努める規定も設けられた≫などと「条例に大いに期待する社説」を掲げた。

≪インターネットから≫


産経新聞は、山口組組長に直接インタビューして、異例の一問一答を掲載した。
その中で組長は「異様な時代が来たと感じている。やくざと言えども、我々もこの国の住人であり、社会の一員。…我々が法を犯して取り締まられるのは構わないが、我々にも親がいれば子供もいる。親戚もいる、幼なじみもいる。こうした人たちとお茶を飲んだり、歓談したりするというだけでも周辺者とみなされかねないというのは、やくざは人ではないということなのだろう。しかも一般市民、善良な市民として生活しているそうした人たちが我々と同じ枠組みで処罰されるというこことに異常さを感じている。…今回の条例は法の下の平等を無視し、法を犯してなくても当局が反社会的勢力だと認定した者には制裁を科すという一種の身分政策だ…」と語っている。

≪産経から≫

私にも中学の同窓生にやくざの親分がいる。同窓会で「うちのクラスで一番有名になった男」と言われたものだが、もちろん卒業以来全く接触はない。しかし代々やくざ一家の長男だった彼は宿題をして来ないから、隣の席だった私がよくノートを見せて写させてやったものだ。
そんなところを国語の女性教師に見つかると、「また宿題バしてキトラン!」というが早いかそばに来て、彼の耳たぶをつかんで廊下に引っ張っていき授業中立たせたものだ。ところがTは「いて〜」と言いつつも何か嬉しそうな顔をして引っ張られていき、授業が終わるまで廊下に立っていたものだ。
教師に呼びつけられた親父は「先生の言うことは正しい。息子を鍛えてやって下せ〜」と女性教師に頭を下げに来たという。

そんな彼が「佐藤〜、久しぶりだ。飯でも食わんか?」と言ってきたら、「貴様は指定暴力団の親分だから、付き合わね〜」と私は言うべきなのだろうか?
尤も、まだ刑務所に入っているらしいが…


2009年1月号の「月刊日本」に、私は【「道」の復活はあり得るか?】と題して、「道を見失った日本」を嘆いた文章を書いた。書き出しはこうである。

≪渡哲也が、映画「大幹部](1968)で「素人さんに迷惑かけたんじゃ〜やくざの道はおしまいよ」と言い、高倉健が「昭和残侠伝・破れ傘」(1972)で、「あほな男や、せけどワイにはこう言う生き方しかでけへんのや」と吐いたセリフに「これこそ任侠の真髄」と、本誌に映画批評連載中の奥山篤信氏は書いた。
今考えると、昭和40年代初めごろまでは任侠の世界でさえも「道」が残っていたように思うが、今や素人の無差別殺人や売春など正気の沙汰とは思えない事件が多発し、祖国を誹謗し御先祖様を悪しざまに罵る日本人が増え続けている。
いつから日本人はこうも「道」を踏み外して平気でいられるようになったのだろう?…≫


ところでウィキペディアによれば「暴力団」とは、
≪組織された暴力を使って金品の利益などの私的な目的を達成しようと、日本を中心に活動する反社会的な集団で犯罪者の一つ。暴力団の構成員を主に暴力団員やヤクザと呼ぶ。生き残りのため系列に政治団体右翼団体)や合法的な会社(企業舎弟)を傘下に組織することがある。「暴力団」という呼称は、警察やマスコミが戦後に命名したものであるが、平成3年に通称暴力団対策法が施行されて、公安委員会が指定暴力団を特定するようになった現在では、暴力団という言葉は法的にも意味を持つものとなっている。したがって、反社会性があっても指定暴力団にならない限りは団体自体を法の網にかけることは困難であり、近年特定団体に所属しない形で生き残ろうと地下組織やマフィアになっていると言われている。

創設者の姓名や拠点とする地名などに「組」「会」「一家」「連合」「連合会」「興業」「総業」「企画」「商事」などを添えた団体名を名乗る場合が多い。
江戸時代からほとんどの団体は「一家」を冠し、傘下に「組」を冠する団体を置いていた。また、昭和から明治にかけて複数の一家が集まった「会」「連合」などが現れた。平成の現在も「会」の傘下に「一家」を置き、さらにその傘下に「組」や「興業」を置く団体が多いが最大勢力の山口組に関しては他の暴力団に比べ新興組織であるため例外と言える。社会に対しては企業や右翼団体、また近年ではNPO法人を装うこともある≫とある。


以前、自衛隊を「暴力装置」と発言した閣僚がいたが、だとすると喧嘩っ早い私なんか、さしずめ[国立暴力団・戦闘機一家]の組員だったということか?!
しかし「暴力?を使って金品の利益などの私的な目的を達成しよう」としたことはないし、“国立”だから「反社会性」もないはずだが、創立以来政治の世界からは憲法違反の存在だとして「法の下の平等を無視」され、「法を守ってきたにもかかわらず」マスコミからは「反社会的勢力」「罪人」扱いされ、「一種の身分政策」を受けてきた。我々が暴力を振う相手は、わが国に侵略してくる外国勢力なのだが、身内から忌避され続けてきた…


さて、この条例が施行されてまだ3日に過ぎないが、一般庶民生活には混乱を招くような気がする。もちろん「悪を許さない」姿勢は重要だが、もっと国家権力で取り締まるべき極悪非道な事例が隠されているのではないか?
つまり、他に取り締まるべきことが山ほどあろうに、まるで、カダフィーやサダムを倒せばすぐにでもリビアイラクに“平和が来る”かのような、錯覚に陥っているのではないか?という素朴な疑問が私には生じるのである。もちろん「暴力団」を肯定しているわけではない。

任侠道を忘れた[やくざ]は始末すべきだろうが、日本人ではない、この国の破壊をもくろむ、警察力でも対処できないような闇世界、例えば「北朝鮮拉致事件」や「国会議員と癒着している外国勢力」などなど、何ひとつ解決できないような状況では、何か優先順位を間違えている気がしてならない。
条例の運用を誤ると「日本の庶民に根付く祭り文化」をも消滅させかねないし、下手すると悪事を働いても処罰されない永田町に、これら闇世界の連中がそろって集合しかねない。いや、すでに入り込んでいるという噂もあるが…

≪日本の屋台=ウィキペディアから≫

仙谷氏が自衛隊を「暴力装置」だと発言した背景には、トロッキーの「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」という言葉があるのだが、レーニンも「政治権力とは必要な場合に暴力で強制できる能力である」とも述べている。

“永田町”に集結した“闇世界の住人たち”は、清水の次郎長一家のように「一家」や「組」などの名は使うまいが、「派閥」「連合」、いや「大連合」などの名前で、この国を牛耳るかもしれない。
その上一部のメディアは「言論」という目に見えない「暴力」行為を平然と振るっている。
暴力団員」たちが「背広」を着て政界を牛耳るようになったら終わりだろう。
この国の行く末に嫌な予感がするのは私だけか?

「暴力団壊滅」論 ヤクザ排除社会の行方

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暴力団 (新潮新書)

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