軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

シナが隠す天安門事件

習近平指導の下、腐敗幹部の粛清が続いているが、中に異様な出来事があったことを≪「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成26年(2014)12月2日(火曜日)≫が次のように伝えていた。
≪北京にある海軍総部副政治委員の馬発祥(中将)が同建物15階から飛び降り自殺したことが判明したのは11月13日だったらしい。
中央軍事委員会規律委員会から取り調べの通知を受けた直後だった。この中将は干永波の配下だった。干永波は89年天安門事件のとき、学生の弾圧を命じたトウ小平にしたがい、軍の采配をふるい、このため新主席となった江沢民の覚えめでたく、その後はトントン拍子に出世した。
この干永波と徐才厚が繋がるのはふたりとも遼寧省瓦房店出身であることだ。中国社会は血縁・地縁重視で成立しており、よそ者には猜疑心、同郷人には連帯感の絆で結ばれる。だから徐の失脚直後に中国語メディアは「これで瓦房店人脈は瓦解した」と伝えた≫


この記事が何を意味しているか、中国ウォッチャーに尋ねると、次のような深刻な状況が軍内部に蔓延していることを教えてくれた。「天安門事件」については、当時国防部長であった遅浩田が1996年に訪米した際、「天安門広場では1人も殺されなかった」と発言して顰蹙を買ったことは有名だが、逆に2011年のリビアの騒乱では、カダフィ大佐が「武装していない学生も天安門事件のようにたたきつぶす」と発言したため、支那の外交部が不快感を表明したほど、支那政府はこの事件に非常に敏感になっている。
河北省石家庄から北京語を話せない第27集団軍(北京軍区所属)が招集され、学生らを掃討したことは明らかになったが、兵士らは、「人々の集まりに遭遇すると、それが誰であろうとも笑いながら無差別に発砲していた」と語っている。
犠牲者数は、「数百人から数万人に及ぶ」などとされるものの、正確な記録はないが後に公表された米外交公電には「軍兵士は下された『無差別発砲』命令を受けて、1000人以上の学生を死亡させた」とされている。他方、ソ連の公文書には「3000人の抗議者が殺された」とされていて、数千人が犠牲になったことだけは確かである。
その後、「天安門広場から完全にデモ隊が放逐されたあとに人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却された」という説が流れた。
1989年6月4日に、北京の天安門広場民主化を求めて集結していた学生らデモ隊に対し、人民解放軍が無差別発砲や装甲車で轢き殺した事件は、シナでは「六四天安門事件」と呼ばれているが、これで検索しても一切出てこない。当局が厳重に監視して消しているからである。


1998年7月に初めて北京を訪問した際、天安門広場でガイドに「文革時にここには100万人以上が集まったそうだが、トイレはどうしたの?」と聞いたことがある。その時ガイドは、広場の周りに設けられている「側溝=下水道」を指差した。


天安門広場の“側溝”の穴は集まった紅衛兵たちの“便所”だったそうだが…(右)≫


実は天安門事件では、死体処理に1個連隊が動員され、ビニール袋に入れてひもで縛った死体を24時間休みなく2日間かけてこの「下水道」に流したのだと言う。
焼却したとすれば、2日間以上死体を焼く煙があたりを覆っていた筈だから、隠密裏に処理しようと政府が、下水道に流したという説の方の信ぴょう性が高いといえる。
この世界を震撼させた残虐極まりない虐殺行為から、支那政府が解放されたのは、1992年に時の宮沢内閣が行った「天皇の中国訪問」と「制裁解除」であったことは記憶に新しい。親中派らしい宮沢首相の対中貢献度は高かったのだが、だからと言って支那の対日報復行動はいささかも衰えなかった。


その後処理に関わった兵士らが次々に自殺して部隊が混乱したため、虐殺命令を出したトウ小平は、万一この秘密が漏れたら困るので、退職金をはずんで処理に関与した兵士を退役させ帰郷させたという。
しかし兵士らも“人間”である。この非人間的行為の悩みを抱えたままだったため、自殺者や精神異常者が増えたという。
そして最近、ついに彼らは、胸の内をHP上で語り始めているらしい。
暴露を焦ったのが国営報道機関である。新華社は、「南京大虐殺」の遺族に対して日本から賠償させる方が先だ!と宣伝し始めているという。


そこでウォッチャーは、「終戦前後の満州長春で30万人以上を餓死させたのは、当時の八路軍毛沢東軍)だった。当時長春には150万人以上の人が住んでいたが、1948年の国共内戦時に、共産軍の林彪が指導した長春包囲戦で、11カ月で30〜80万人が餓死したという。抑留されていた日本人も相当被害が出ているはずだから、先生調べてみて!」と言い、「少なくとも台湾に逃げた国民党軍は良く知っているはずだ」ともいう。
その後長春の人口は17万人に激減したともいうから、当時の長春についてご存知の方は真相をお教え願いたい。
手元にある「新京・長春の記憶=日本長春会創立60周年終戦記録文集」では、悲惨なことは良く読み取れるが、正確な記録はついていない。


終戦直前から直後までの満州などにおけるソ連軍による略奪暴行の有様は、言語に絶するが、その後のシナ軍の暴虐さも人後に落ちない。
この記録集の資料には「昭和23年夏、長春市が中共軍に包囲される(チャーズ)10月18日、長春中共軍が占領。24年10月、中華人民共和国発足。28年3月、興安丸・高砂丸、満州などから留用者家族3968人を乗せて舞鶴港入港。33年7月までに約3万4000人が帰国」と事実が記されているに過ぎない。

ウィキペディアには「国共内戦において蒋介石側だった長春市は、毛沢東林彪軍による長春包囲戦を受け、長春一般市民の2/3にあたる数十万人が餓死する大惨事となる。その結果として1948年からは人民解放軍の勢力下に置かれ、1949年に中華人民共和国が成立すると、長春吉林省省都となり現在に至る」とだけある。


ウォッチャーは続けて言う。
「自分らの行為を棚上げして、日本側にだけ賠償請求する中国共産党に対して、日本人も犠牲になっているのだから、賠償請求すべきじゃないのか?日本政府は実にだらしない」

傍若無人旧ソ連軍と、終戦後に非人道的行為を続けたシナ軍に対して、なぜ堂々と抗議しないのか、私にも理解できない。外交にお詳しい宮沢元首相に聞いてみたいものである。


ところで周永興が逮捕され、次々に愛人関係が暴露されている。
「一つの山に二匹のトラは住めない」の例え通り、習近平をめぐる政権闘争はいよいよ終盤に差し掛かっているようだ。

胡錦濤派といわれるNO2の李克強首相は、糖尿病と心臓などに疾患を抱えているそうだが、やがてスキャンダルまみれになって周永興と同じ道をたどることになりそうだ。最高幹部7人中、今残っているのは習と李の二人だけになっている。肉体的「強度」から見て、病気持ちの李の方が不利だというのだが、さて…

黄文雄氏は、「中国の大動乱が日本に押し寄せる(徳間書店)」のなかで、「加速する断末魔の排外主義と対外侵略。破局へ突き進む中国は日本を道連れにする!」と警告している。
その根拠は「資源争奪→環境破壊→疫病大流行→大災害→大暴動→排外主義・対外戦争、これが中国5千年の歴史で繰り返されてきた『歴史法則』」だからだ、というのである。


14日の衆院選挙の結果いかんによっては、これが的中する恐れがある。何せ自民党政権下で結論が出ていた普天間問題を振り出しに戻して日米間に新たな火種を残し、その上「日本は日本人だけのものではない!」と言ってのけた首相がいたのだから、シナにとっては攻めどころであろう。日韓離間は達成した。次は日米離間工作である。

人生の大部分を残している若者たちの自覚を期待するのみだが…

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大韓航空の趙顕娥副社長=産経から≫

しかし、柳氏は「韓国と日本はともに病んだ国」だと書く。基本的には学術書なのだが、読みやすいように手が加えられている。


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今号は、中韓の謀略に関する特集号だが、私と西村眞吾議員の対談も出ているので、興味ある方はどうぞ。
私の原作を漫画化した「ストレンジャー」は作画のあびゅきょ氏の沖縄取材旅行に基づくものから、「黎明の笛」的なドラマチックな展開になってきた…

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