軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

獅子身中の虫を駆除しよう

今年もいよいよ今日一日を残すだけになった。昨日、新年を迎える準備を完了したが、周辺には門松もしめ縄も見当たらない。
あと一日あるから…とは思うものの、スーパーなどに山のように積んである「国産しめ縄」などは売り切れるのであろうか?と心配になる。
まだ今日一日残っているから断言はできないが、年を重ねるごとに「日本国」としての伝統が失われていくような気がしてならない。

そういえば子供のころは、ラジオから「お正月には凧あげて、独楽を回して遊びましょう…」という歌声が響き、皆で口ずさんだものだが、今じゃホワイトクリスマス…。

資料整理をしていたら、平成18年1月3日の産経新聞切り抜きが出てきた。皇位継承をめぐる議論華やかなりしころの、皇室をめぐる特集記事である。

≪平成18年1月3日付の産経新聞記事≫

そこには「神秘性と伝統の重み」とする皿木記者の解説がある。
「…日本の皇室は外国の王室のように武力で国民を服従させたのではない。親しみやすさで信頼を得てきたわけでもない。その権威を保ち続けることで、国民から崇敬を受けてきたのだ。明治維新の際、当時17歳の明治天皇は二千人以上の行列を従え京都から東京へ向かった。沿道の住民たちは、ほとばしり出る天皇の権威に打たれた。みんな手を合わせ、行列を仰ぎ見たという。維新政府はそうした天皇の権威を背に大改革を行い、欧米列強に負けない近代国家を作り上げたのである。そんな天皇の権威が保たれたのは、開かれた皇室とは逆に、ベールの向こうで祭儀が執り行われるという『神秘性』によるところが大きかった…」


現在も天皇宮中祭祀を執り行われていて、1月1日には「四方拝(早朝に神嘉殿南庭で、伊勢神宮、山稜、四方の神々を遥拝される年中行事の最初の行事)」を執り行い、国家国民の安寧と豊穣を祈っておられるのだ。
それに比べて最近の国民は、少しいい加減すぎはしないか?と気にかかる。


今年もいろいろ災難が起きたが、国民の努力でそれなりに収まったことは幸いだった。30日に曽野綾子女史はコラム「透明な歳月の光」に「平成27年を振り返って」としてこう書いた。


平成27年は、大まかに言えば日本人にとって穏やかな年だった。
鬼怒川の決壊の後の水害のような部分的被害には見舞われたが、国家的といえるほどの大規模な災害は新たに発生しなかった。
 それなのに、私は心理的にはどこか疲れている。年齢のせいだとも思えるが、日本人の精神が変わってきているように感じているからでもある。相変わらずテレビは食べ物の話と、ひな壇に人を並べて「うわあ」とか「へえI」とかいう声を聞かせる番組でことは済むと思っているようだし、ハロウィーンとかクリスマスとか、キリスト教徒でなければ関係ない祭日を単なる遊びの機会として捉えている軽薄な日本人もめだつようになった。「たわいないことだから、いいじゃないの」という人もいるが、私はよくないと思っている。こうした心の問題には、慎重に行動することが、その人の思想となり、責任ある振る舞いだといえるということを、教師か親かが厳しく教えれば、こうはならないはずである。だから半面で、まっとうなイスラム教徒に対する理解もなく温かい態度も取れず、ヘイトスピーチに流れたりする。
 愛とか、平和とか、人権とかいうことを口にしたい時も、昔は自分がどれだけそうしたものを命にかけて守れるだろうか、と思うと忸怩たるものがあって、あまり軽々には口にできなかった。いつも言っていることだが、平和は、スローガンやデモやチャリティー・イベントでは守れない。百円、千円程度を寄付することでもだめだ。平和は、生涯をかけて、命か、全財産を差し出すくらいの決意を持った人だけが、そのために働いているということができる。しかし平成27年には、言葉だけが洪水のようにあふれて、私はそれに溺れそうになってしまったのだ。
 昔の日本人の行動や表現には、羞恥や含みなどという微妙な要素があったから、平和などという「ご大層な言葉」はめったに使わなかったのだ。
 平和を願わない人は珍しい。暮れにアメリカのパットン(戦車隊)将軍の伝記的映画をテレビで見たが、この人はとにかく前線(戦争)を愛した。日本人から見たらとんだ「戦争野郎」なのだが、経営者としてみたら、決断の素早い正確さという点で、類いまれな素質と才能を持っていた。だからこの伝記的映画もできたのだろう。
 アメリカの多くの人も、日本のわれわれと同じような戦争嫌いだろうと思うが、一方でこうした人物を分析的に取り上げることで、社会のものの考え方に陰影を残しているところがいい。
 成熟した大人は、分裂した現実に耐え、普通は対立した陰の心理を感じ生きている。しかし日本人には、ひたすらまっすぐ正論を掲げてその道を行けば、必ずゴールに達することができる、と信じている「善意の大人」群が実に多い。そうした人々の発言を聞いていると、その手の幸運も、現世で決して皆無とはいえないだけに、私は黙って疲れていたのである。≫


平和は、生涯をかけて、命か、全財産を差し出すくらいの決意を持った人だけが、そのために働いているということが出来る…全く同感だ。戦後は口先だけの平和論者があまりにも増えすぎた。それに歳の割には未熟な者が増えてきた気がする。


他方、今朝の朝刊に、産経新聞の加藤達也・前ソウル支局長が「朴政権との500日」という手記を掲載した。やはり…と思う点が多かった。
来年からの日本外交の在り方を占う点で非常に参考になると思うから、特に参考になると思われる後半部分を一部掲載しておこうと思う。

朴槿恵政権との500日】加藤達也・前ソウル支局長手記
≪異様な法廷 震える検事の手≫ 


(リード部分)
ソウル支局長として滞在していた韓国で、インターネット上に掲載したコラムが朴槿恵(パク・クネ)大統領の名誉を毀損したとして私は、起訴された。「容疑者」「被告人」から無罪に至る500日間、特派員として朴政権と韓国検察を見続けた。そこには自ら泥沼の中にはまり込み、もがいている韓国の姿があった。

(前半は法廷でのやり取りが主)

後半部分の「中途半端な妥協しなかったから無罪になった」「辞職圧力に絶句・吐き気を催すことも」の方が非常に参考になる。


≪目的は産経の信用失墜
(前略)こうした(検察の)揺さぶりは、先の見えないはじめのころこそ「今後、どうなってしまうのだろうか?」という不安を駆り立てる効果があったが、慣れてくると「あ、またか」となって効果はなくなる。
 私の取材では、韓国側は産経側から早期に謝罪と記事の取り消しを引き出せると踏んでいた。韓国側はまず青瓦台高官による「民事・刑事で法的責任を徹底追及する」という発言で萎縮させ、検察に呼び出して取り調べて恫喝。謝罪の意思を確認したが、思うような成果は出せなかった。
 早期の謝罪引き出しは難しいとみた韓国側は9月下旬、「遺憾」の言葉を引き出す戦術に転じた。
 国際社会では、事態が「政権批判をした外国特派員への弾圧」として定着し始めていた。韓国側は一刻も早く状況を転換しなければならなかったのだろう。
 私自身と産経の経営陣に「さっさと謝ってしまってはどうか」 「遺憾という言葉だけでも表明できないか」などという。“提言”や“助言”が多数、届いた。
 例えば、青瓦台に出入りして意見を求められることもある日韓関係専門の学者は休日の早朝に電話をしてきて「日韓関係の悪化を心配している。遺憾ぐらい表明できないか。青瓦台も振り上げた拳を下ろすタイミングを探っている」と。
 しかしそもそも、日韓関係の悪化の事態を招いたのは誰なのか? 私はこうした発言の一つ一つに慎重に耳を傾けたが朴大統領自身が事態を心配して周辺と話し合っているという実感はついに持てなかった。 


「遺憾」引き出しに必死
 一方、公判も論告求刑まで進んだ2015年の秋、もはや「謝罪」を得ることは不可能とみたのか、韓国側は「遺憾の意」を引き出そうと必死になっていた。
 特に柳興洙駐日韓国大使の働きかけは熱心だった。11月26日から12月17日に延期された判決公判の期日が迫る中、知韓派の国会議員や安倍晋三政権の中枢にも働きかけ、「産経の社長と面会だけでも…」と要請してきた。社はこうした申し出を丁重に断つたという。
 私の元には、ある新聞社の旧知のOBが20年ぶりに連絡をしてきた。
面会すると、私に「会社を辞めて、遺憾の意を表すべきだ」と切り出してきた。これにはさすがに絶句してしまった。
 昨年夏の問題発生当初には、あまりの圧迫感から吐き気を催したこともあった。しかし、そもそも、私のコラムは刑事訴追されるようなものだっただろうか? 何度も自問してきた。結局は安易な謝罪、遺憾表明をしなくてよかったと思っている。
 水面下で話し合いを持って、遺憾の意など示して折れてしまえば、将来も問題を蒸し返されて延々と弱みとなりかねないことは、日韓の歴史が証明している。中途半端な妥協をしなかったから、無罪となったと確信してもいる。
        ◇
  「無罪」判決確定まで500日余り。これまでご心配、ご支援をしていただいた方々にこの場を借りて改めて感謝の気持ちをお伝えします。ありがとうございました。≫


裁判だから相手がいるのは当然である。しかも相手は「罪を認めさせるのが目的」だから執拗に“攻撃”してくる。

すると日韓間で利害を持つ“誰か”が動き出す。彼らは事の真相などはどうでもいいのだ。在日韓国大使のように自分の利益が絡んでいるか、“日韓関係専門学者”のように、少なくとも自分個人の名誉欲が絡んでいるだけだ。
旧知の新聞社OBなどはおそらく日本人じゃないのではないか?

加藤記者の手記は、単なる言論封じ事件ではなく、国家間の外交に関する重要な問題を提起しているのだ。
日本外交には「事なかれ」が目立ち過ぎてきた。それには軍事力という強力なバックがないことが影響しているのだが、今回のような『引用記事』程度の問題においても、いつものように裏取引して金をむしり取るやり方をする国家の手法を、毅然として封じるだけの勇気がわが国の外交には欠落していたのだ。

その典型的な悪例が、ダッカ事件で首相自らがとった「超法規処置」であろう。あれ以降、日本は「脅かせば金をふんだくれる国だ」という目標になってしまったのだ。
そして何よりもこの手記には、相手よりも≪身内≫に敵が潜んでいることを明瞭に指摘されていることだ。真の敵は「身内にいる」のだ。
事を荒立てない…足して2で割る…安易な妥協という“穏便な方法”は、時として加藤氏自らが指摘しているように、物事の根本的な解決にはなりえない。
しかし一時的にそれで事足りるからこの手の手法はなくならない。
つまり、「トカゲのしっぽ切り」でその場をしのぐ。当事者は何時までもその立場にいないわけで、2年もすれば出世して他の部署に異動できるからだ。
これを現役時代、我々は予算要求方式の「後年度負担」になぞらえて、「後任者負担」と揶揄したものだ。

安倍首相は、70年談話でも今回の慰安婦問題でも、この「後任者負担」を打ち破ろうとしているように見える。大変結構なことだ。しかし成果を挙げねばならぬ。相手はこの方式しか能がないのだ。


今朝の産経抄子もこう書いている。

≪【産経抄】なぜいまだに「戦後」にとらわれ続けなければならないか≫ 

「戦後70年の今年は、やはり歴史をめぐる騒動に明け暮れする1年となった。年初から、新聞やテレビは安倍晋三首相の戦後70年談話の行方を大きなトピックとして扱った。この年末には、慰安婦問題を「最終的かつ不可逆的に解決」するための日韓合意が大ニュースとして耳目を集めた。

 ▼ただ、小欄にはいささか違和感もある。先の大戦から70年もたつのに、なぜいまだに「戦後」にとらわれ続けなければならないのかと。「もはや戦後ではない」。経済企画庁(現内閣府)が経済白書にこう記述してから59年、中曽根康弘首相(当時)が「戦後政治の総決算」を訴えてからも、30年が過ぎたというのにである。

 ▼「戦後の枠組みを守れ」。中国や韓国は歴史問題絡みで、何度も日本をこう牽制(けんせい)してきた。9月に成立した安全保障関連法の議論では、反対論者からも同様の主張がなされていた。それでは、彼らが言う「戦後の枠組み」とは一体何なのか。

 ▼つまるところ、戦勝国と敗戦国という立場の固定化ではないか。日本を戦争に敗れた過去に閉じ込め、身動きできないようにするのが目的だろう。もっとも、中韓両国は戦勝国を自称しているだけで、実際は日本と戦ったとはいえないが。

 ▼「これでもう戦後80年談話、90年談話は必要ない」。延々と繰り返されてきた謝罪外交に終止符を打つ狙いがある70年談話発表に際し、安倍首相は周囲にこう語っていた。今回の日韓合意の背景にもこれと同じ思いがある。

 ▼とはいえ、日韓合意は評価が分かれ、厳しい見方も少なくない。「政治家は歴史法廷の被告だ」。中曽根氏はかつてこう喝破した。今年は果たして「戦後」から脱却する第一歩となったのか。来年は、安倍政治の真価が問われる」


その通りだ。時代は既に21世紀、宇宙に人類が進出できる時代だ。隣国のように、いつまでも過去にとらわれて(といってもそれは我が国がそれに真面目に応じるからだが)≪後ろへ後ろへと全力疾走≫している国にとらわれている暇はないのだ。
いつまでも、足踏みするだけでは前進できない。地球環境問題初め、宇宙問題も日に日に現実化してきている。人類の進歩のためには、やることは山ほどあるのだ。そのためには来年こそは大東亜戦争の停戦記念日である8月15日に、ご高齢の天皇陛下戦没者供養行幸を少しでも楽にしていただくため、安倍首相は率先して参拝して、この問題に決着をつけねばならない。
そのためにはまず「獅子身中の虫」を一掃しなければならない。
それでこそ初めて[我が国を取り巻く歴史問題]に決着が着くのだ。


来年は一億国民がそろって過去と決別するため「回れ右」して、前方に向かって歩を進める時にしなければならないと思う。

皆様にとって、来年がよいお年でありますように!

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