軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

西洋の「殺しや集団」と日本の「愛国者」の差異

前回、葛城女史の論文から「特攻隊」について紹介したが、産経に「特攻隊」が出ていたので、これもご紹介したい。

紙面が狭いので、読むのは困難だろうが、これが当時の「軍国主義国・日本」の、家族の絆を物語る事実である。

ロシアのような、戦争目的のプロの軍事集団という組織ではなく、一般国民から「出征」して、祖国を守るために戦場に駆け付けたのであり、血が通った人間集団だった。

 また、宮崎氏の「ブログ」を引用して、国家基本問題所の「政軍関係」の論文も紹介したが、実物が送られてきたので、北村氏の「経済安全保障」とともに、後段でこれもご紹介して置くことにする。

 宮崎氏が冒頭で嘆いていたように「戦後の日本ではほとんど論じられないできた内容のもの」だから、あまり期待はできないが、今世界中で「戦争が起きている」中であり、少しは本気に考える方もいるだろうことを期待してご紹介するものだ。

 

 さて、細田衆院議長が亡くなった。議長辞任から一か月だったろうか?その姿からは全く「生気」が感じられなかったからよほど具合が悪かったのだろう。

 この政権には、このような生気が感じられない方々が多い。逆に国のことはそっちのけで元気に?「自分の会社の儲け」だけに精を出す議員さんが多い。なんでこのような「不適切な人物」が集まるのかしらん?と思ったが、もともと今の政界には「バッジ」と役職(副大臣?)を利用して自分が儲ける?者しかいないのだろう。つまり、人材が著しく欠乏しているのだろう。そのうちに永田町は「詐欺集団」に乗っ取られるのかもしれない(笑)

 ところで、大谷選手が、小学校に6万個のグラブを寄贈すると発表した。青少年たちの嬉しそうな笑顔にほだされたが、彼の様な「真摯な生き方」をする人間が、あまりにも少なくなった。きっと良い少年たちが育つだろう。大いに期待したい!

 私は終戦の翌年に小学校(当時は国民学校)に入ったのだが、物資欠乏はよく記憶しているが、大人たちの苦労はあまり理解していたとは言えない。物がなくて苦労していたのは、当時のお百姓さんたち以外はみなそうであったから、お米を求めて遠くまでリュックサックを担いで出かける両親の姿が「当然の風物詩?」だと思っていた。だって「物がない」のだから。

 巷には「浮浪児(戦時孤児)」が屯し、彼らはモク拾いが日課だった。傷痍軍人が街角に立ち、ハモニカを吹いて小銭を集めていたし、MPと警官が、密売業者(と言ってもほとんど食品を求める婦人達だったが)中には「パンパン」と称する娼婦が、米国水兵と腕を組んで歩いていて、我々は先生方から「見ないよう」にと注意されたものだった。

 そんな中での楽しみは、母がかけてくれた「蓄音機」から流れる小学唱歌であり、関心を持ったのは親の「謡曲」を練習する姿であった。だから今はやりの音楽は、さっぱりわからない・・・

 そんなことを考えていた10月26日に、次「の読者の欄」が目に留まった。

 今でも「老人会」で皆さん方と合唱するが、私の心にしみるのは「里の秋」と、訳もなく好きだった「あした」である。

 当時は「母子家庭(父は戦地へ)」が多かった。当時の私は両親から「かあさん・とうさん」ではなく「かあさま・とうさま」と教えられた記憶がある。

 この投稿主は55歳だから、まだ若い。「いつまでも歌い継がれてほしい」とはなんともうれしい話である。

 

届いた書籍のご紹介

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「政軍関係」の研究:国基研「政軍関係」研究会(編)¥2200+税

「経済安全保障:北村滋著:中央公論社¥2000+税」