軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

『南京虐殺記念館』の幻

中国が,『抗日記念館』をリニューアルし展示品を増加している、という産経新聞の報道を見て,未だに執拗に『反日プロパガンダ』を継続しているのを,手元の資料から一部引用して『反論』してみた.この『事件?』は,日中戦争たけなわの時には,些かも報道される事なく,戦後,東京裁判で持ち出されて問題になったものである.南京城攻防戦は,筆舌に尽くしがたい激戦であった事は体験者の殆どが認めているが、なぜ昭和12年12月,戦闘終了直後,又はそれ以後にこの『事件』が報道されなかったのか?
「南京攻略当時,南京に入城したのは約120人の新聞記者やカメラマンだけでなく,大宅壮一木村毅杉山平助野依秀市西条八十草野心平林芙美子石川達三などの高名な評論家,詩人,作家も,陥落と殆ど同時に南京に入城しており,その外にも,13年の春から夏にかけて,南京を訪れた有名人は多勢いた」と,評論家・田中正明氏は書いている.
従軍記者やカメラマンは,部隊と行動を共にし、戦況を報道するのが使命である.いわゆる『百人斬り』報道も,戦意高揚の為の「創作」であった事は当時のカメラマンの証言でほぼ明らかになっているが,これらの人々の目に入らなかった、というのがどうしても私には納得できないのである.
他方,スメドレー女史や,ティンバレー氏が,国民党宣伝部で活動していた事も分かっている.シナ事変の最中から,蒋介石軍には『義勇空軍』に代表される,米国側の強力な支援が行われていた事も事実である.こう見てくると,東京裁判直前に「盧溝橋事件は自分が仕掛けた」と西側記者団に証拠を挙げて語ったとされる劉少奇副主席の行動と二重写しになる.私には,北京の抗日記念館を見学?して,これは『宣伝だ』と直感したのだが、『南京虐殺記念館』も,これと大同小異,恐らく壮大な虚構を陳列した『幻』だと思う.
戦勝国』の中国は,『敗戦国』の日本が言う事には一切耳を傾けないであろう.北京での会合で化学砲弾数を200万発だと強弁した中国側幹部に、中国代表自らが70万発だといったという証拠を挙げられ、彼の発言の誤りを指摘された時、『数の問題はともかく…』と幹部は逃げたが、これが関の山だと思われる.
東京裁判の記録を取りつづけた,冨士信夫氏の証言は,その辺を余すところなく解説していると思うが,その中でも特に『南京事件』に関する部分を集約した『南京大虐殺はこうして作られた』(展伝社)は、この事件に関する貴重な資料集であろう.これに類するものでは同社から出版されている「大東亜戦争の総括」、『満州事変とシナ事変』などは参考になる.
シナ人の特性を知る上では『シナ大陸の真相』(展伝社)、最近話題になっている『紫禁城の黄昏』(祥伝社)、「中国人の歴史観」(文春新書)、「上海東亜同文書院風雲録」(角川書店)、「中国共産党 葬られた歴史」(文春新書)なども示唆に富む.
戦場体験談を気楽に読めるように小説化した伊藤桂一氏の「秘話シリーズ」は,当時大陸戦線で勤務し,上海で終戦を迎えた元陸軍伍長という経歴と、実地に体験談を収集した貴重な読み物である。この問題は、気楽な日記であるこのブログよりも、平河総研のメルマガで続ける事が適切だと考えるので,この辺で打ち止めにするが,最後に「どこで日本人の歴史観は歪んだのか(岡崎久彦)」(海竜社)の中に、「実態は不明 南京事件」と題して、岡崎氏がこの問題に関する意見を述べているのでご参考までに前文を引用しておこう。
南京事件は未だにそれが実在したか否かさえ論争が続いています.それは南京事件を取り上げた東京裁判があまりにも.一方的な杜撰な裁判であり,平和時の有能な弁護士から見れば,全て証拠不充分で却下するのが当然のようなケースだからです.
ただ,通常の占領で起きる以上の規模の越軌が行われた事は認めざるを得ません.参謀本部の堀場一雄は,「一部不軍規の状態を現出し,南京攻略の結果は10年の恨みを買い,日本軍の威信を傷つけたり」と書き,石射は「略奪,強姦目もあてられぬ惨状である.ああこれが皇軍か』と日記に記し,事件後松井石根将軍は「お前達は何と言う事をしてくれたのか」と嘆いたといいます.
どれも本人がその場で見たわけではないので,裁判次元では伝聞に過ぎませんが,これだけ立派な人々の証言を無視して歴史は書けません.
他方、被害者が2,30万人というような数字は,問題外で荒唐無稽です.そんな事は,当時の国共両軍が戦闘の際の相手の虐殺の数と,その残忍さを誇大に報じ合っているのを見れば,宣伝上の数字であることは常識で分かります.そんなものを真実のように取り上げた東京裁判の程度の低さを実証する何よりの証拠です.…(以下略)」
中国側の一方的な「宣伝・展示」を信用する前に,日本人自身が自ら多くの資料から客観的に物事を分析する事が、特に現代日本人には要求されているのではなかろうか?と思う.