軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

日米“空軍友情物語”

航空ファンに書かれた寄せ書き

 平成8(1996)年2月8日の夕方、当時松島基地司令であった私のところに三沢基地司令時代のK通訳官から「訓練中のF-16・9機が、天候急変で三沢に着陸出来なくなり、松島基地緊急着陸させてほしい、と米軍が言って来たがどうでしょうか?」と直接電話が入った。奇異に思われるだろうが、基地によっては、米軍機を軽易に着陸させ、地方議会やマスコミから騒がれることを嫌って消極的対応をとるところもあったのである。松島も小雪がちらつき始めていて多数機の緊急事態だから事は急を要する。ただちに許可して、矢本町長にその旨を電話で伝えた。基地周辺市町村との関係は極めて良好であったから、町長は快く了解してくれた。防衛部長に運用上の、装備部長には機体保管上の、人事部長には宿泊の準備を指示し、監理部長には報道各社に通知させた。
 4時すぎに1番機が管制圏に入り次々と9機のF-16が着陸した。F-16パイロット達は、米国で基本操縦課程(T-38)を受けて英語が達者な戦闘機課程学生を中心にエスコートさせ、学生宿舎に泊める事にして、彼等が日本のビールが大好きなことを知っている私はビール1ケースを差し入れて“英会話実地訓練”をさせた。深夜に三沢から整備員達が東北道をバスで到着したが、彼等は整備員達と“英会話訓練”をさせた。
 翌日、昼食時に幹部食堂に行くと、F-16パイロット達が学生パイロット達と「ナイフとフォーク」を使った“特別食”を食べていて、私と副司令を見るや一斉に立ち上がって敬礼したから「十分休めたか?」と訊くと「イェス・サー」という元気な答えが返ってくる。その時、基地の若い栄養士が彼等に“コーヒーサービス”を始めたのを見た副司令が「○○さん、我々には“粗茶”で、彼等にはコーヒーか?」とからかい、「団司令、日本人は大東亜戦争に負けてからどうも“外人に弱く”なりましたなあ!」と言って悪戯っぽく笑った。
 実は1年前のゴールデンウィークにもF-16が10機緊急着陸する事態があり、その時は休暇で帰宅していた私の代わりに彼が一切の処置をして、当時の第35航空団司令ノーウッド准将から感謝状が届いたことがあったのだが、今回も後任の第35航空団司令のへスター准将から同様に感謝状が届き、それにはこう書いてあった。
「このたび当団のパイロットと整備員が貴基地を突然に訪問する事態が発生しましたが、その際の心温まるもてなしに大層感謝しております。部下の報告によると、西洋スタイルの素晴らしい食事が振る舞われたそうですが、これは明らかに貴部隊の食堂が第1級の施設であることの証明です。今回の様な短時間での通報にもかかわらず、閣下が私の部下に与えてくれた素晴らしい心配りは、日本人と同義語でもある寛大さと親切心をはるかに越えるものであります。私は常日頃、私たちのホストである日本国民と心のつながりの強化に努めております。近い将来に閣下の三沢基地訪問を計画し、是非とも閣下のおもてなしに対しお返しが出来ることを計画しております。このたびの私の部下に対する暖かい歓迎とおもてなし、本当に有り難うございました。…准将 ポール・V・ヘスター」
 そしてこの「物語」には「オチ」がある。へスター准将は、全機帰隊した後直ぐにお礼の電話をくれたのだが、私は一つだけ「クレーム」をつけたのである。F-16の第13飛行隊のコールサインは「将軍(Shogun)」、第14飛行隊は「侍(Samurai)」であったから、「天候不良時には何時来ても構わないが、『将軍』とか『侍』とか言う呼び名は日本独自のものである。三沢は日米共同使用基地だから我慢していたが、松島はれっきとした日本軍基地であるから失礼である!」と言った。勿論冗談だったのだが、まじめな准将は「ではどうすればいいか?」と聞いてきたので、思わず「米軍機らしく、例えば『ジャックダニエル11』とか、『ワイルドターキー22』というコールサインで来ればもっと歓迎する!」と言ってしまった。
 その後何回か意図的に?緊急着陸してきたが、彼らは松島の管制圏に進入したとたん、「ショーグン11・コールサインチェンジ。ディスタイム“ジャックダニエル11”」と呼び込んで着陸し、飛行隊に「コールサインと同じプレゼント」を置いて帰ったらしい。私のところには“現物”が届かなかったので確認は取れてはいないが…。
 このように彼らは実に茶目っ気たっぷりであり“友軍”として申し分ない連中であった。
技量未熟で図面が不鮮明で恐縮だが、松島基地に飛来したF-16パイロット、整備員たちが離陸前に私の部屋に挨拶に来て、裏表紙にお礼の寄せ書きを書いた「航空ファン・イラストレイテッド93-6 NO・70 F-16特集号」を私にくれたものである。それには“We hope to return the favor soon”と書かれていたが、彼らは機会を捉えてはよく飛来した。
 時の航空団司令であったヘスター准将とは、その後在日米軍司令官・兼第5空軍司令官を勤めたヘスター中将のことで、退官後、あるパーティでばったり彼に出会うと改めて当時のことを細かく覚えていてお礼を言われたのを覚えている。
「日米共同訓練」での隊員達の真摯な努力の積み重ねと“友情”が、この様に日米間の協力体制を円滑にし強力な信頼関係が築かれつつあるという事実の一端をご紹介したが、「日米“軍事”関係」は強固だが、最近の「日米“政治”関係」には、ややもするとギクシャクしているところが散見されるのは残念である。
 防衛白書が指摘する様に「日米同盟が強固であることがアジア太平洋地域の安定に貢献する重要な要素」であるならば、現場の自衛官達によって地道に築かれたこの“財産”を、政治家たちが大いに有効活用する努力をして貰いたいものである。