軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

「月刊日本」創設10周年記念パーティ

 昨夜は半蔵門まで出かけて、表記パーティに出席してきた。「月刊日本」の主幹・南丘氏とは、私が航空幕僚監部広報室長時代からの“戦友”である。当時「ラジオ日本」の報道部長だった彼が、日航機墜落事件の詳細について問い合わせてきて、番組に出演したのが縁である。
 その後、私は三沢基地の飛行群司令に転出したが「是非会いたいという方がいるのであって欲しい」と電話があり、群司令室で面談したのが川内康範氏であった。前にもこのブログに書いたのだが、「たった一人でマスコミ相手に戦った奴の顔が見たい」というのが動機だったそうだが、面談後「気に入った!」と硬い握手をされたものである。2年後、再び三沢基地司令として着任したとき、米軍のF−16が夜間訓練中に飛行場内に墜落した事故があったが、これを朝日新聞などが針小棒大に報じたため、日米関係は極めて緊張したことがあった。
 そのとき問い合わせてこられた川内氏に事故の事実関係を解説したところ、「現地に来ないと判らないものだ」と納得され、早速三沢市長に助言し、日米安保の危機を回避することが出来たのであったが、その鈴木重令市長も先日亡くなられた。
 川内氏が挨拶後着席されたのを見計らってご挨拶したところ、「オー!司令か!」と立ち上がりそうになり、手を握り締められたのには驚いた。当時と違って私は帽子も被らず、メガネをかけていたから「変装」状態だったのだが、「三沢基地でお会いした佐藤です」と言った途端の反応だった。
 17年ぶりにお会いした川内氏は、相変わらず日本の現状を深く憂えておられたが、やや足元が不安定だったものの眼光鋭く、記憶力は衰えてはいなかった。
「鈴木市長も亡くなられましたね」というと「鈴木もねー」と涙ぐまれた。情と熱の世界を大事にする川内氏ならではの姿だった。
 多くのジャーナリストにも会うことが出来たが、私が連休中は百姓仕事をしていたと言うと「どんな作物を植えましたか?」と聞いた中国人ジャーナリストがいた。「トウモロコシ・・」というと「どうしてトウモロコシですか?」と聞くから、「中国に石油を奪われるから、バイオ燃料を作るのだ!」と言うと大笑いした。
 彼は「先生、無理無理、それは無理ですよ!」と私の腕を握りながら笑い続けた。彼が私に「先生!中国人は悪い、ではなく、“中国共産党が悪い”と言って下さい」と言った本人である。
月刊日本」は原稿料を払わない、面白い雑誌社である。それが10年間倒産することなく続いたということは実に面白い現象だと思う。物書きにとって原稿料は生活の糧であるはずだ。しかし、これほど多くの有名人が、タダで貴重な原稿を書いていると言う現象は、一体何を意味するのだろうか?出版社の編集方針に左右されない、自分の本心を書くことが出来る媒体として、逆に貴重な存在だと感じているのかもしれない。
 こんな雑誌社が増えるといいのだが・・・。勿論、原稿料を払った上で言いたい放題書かせるという雑誌社なら更に良いのだが!!