軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

F35事故と新聞の衰退

F35の墜落事故に関して、パイロットを悼む記事がないことを残念に思っていたが、今日になって2つの記事が見られた。

1つめはジャーナリスト・宮崎正弘氏の「国際ニュース・早読み(4月15日号):通巻第6041号」の(読者の声1)欄で、投稿者は軍事評論家で元1等陸佐の高井三郎(みつお)氏の投稿「F35Aの墜落事故について感じること」である。

【先頃のF35A事故に関し、痛く感じた事を御知らせします。操縦幹部が40代の三佐という公表:恐らく40代半ば又は後半ではないか。昭和期と異なり、操縦幹部を希望する若者が益々減り、後継者が少なく、先輩が高齢化しても戦闘機搭乗を余儀なくされている。

本来、ジェット戦闘機の操縦幹部は、三十代末期、例外的に四十まで勤めてリタイヤし、他の職域に異動。ジェット戦闘機の戦闘行動は非常にきつぃので40代を過ぎてやるのは過酷!!恐らく第三国に戦力を判定されるので年齢を具体的に公表しない。

若者が自衛隊を志願する政策を強化すべきである。

三沢市長は、操縦幹部の殉職に哀悼の意を表すことなく、今後、陸地での墜落の危険性のみを危惧して飛行再開に反対した。沖縄知事と同様に国防意識がなく、地域エゴに終始する。これが平成以来、高まる国民の国防意識の欠落現象である。

三沢事故の場合、防衛大臣が市長に陳謝する必要性は全くない。三沢市長は、所要の対策を講じ、今後、益々訓練に励み、防衛力を強化されたいと要望すべきだ。我が国は国民の対する愛国心と国防に関する教育が欠落している。

防衛省は、事故や基地問題が起きると常に防衛大臣を表に出しており、極めて遺憾。統幕広報部の最高幹部(将官)が全く機能していない。

欧米諸国、中国と同様に広報担当が常に正面に出て対外広報作戦を実行し、大臣は真に政治上、外交上、大事な問題に対応すべきだ!!

以上は、国防に関する現状と問題点の把握分析と対策の考え方の一例です】

 

三沢基地司令時代に、米空軍のF16が基地内に墜落したことがあった時も、全く同様であった。

この時はパイロットは脱出に成功して無事だった。市民の方は冷静であったが、新聞各紙はいつものように『一歩誤れば大惨事!』と大騒ぎであったから、海外出張中で不在だった市長の元には、新聞記事がFAXで送られただけだったからたまらない。

それを信じた市長は激怒して、帰国後「米軍には協力しない」と発言したから、これを聞いた政府は慌てふためき、米軍も非常に怒り市の行事に一切協力しないと言い放った。困ったのは商工会だ。

中に立たされた私は、次々に来訪する防衛庁高官は別にして、問い合わせがあった外務省高官の三沢訪問だけは阻止することに成功した。

あのころから事故に関わる報道の内容は何も変ってはいないのだ。

自治体の首長が、軍事に疎く無関心なことは分かっているが、せめて殉職者に対する態度だけは人間らしく振舞ってほしいものだが、おそらくこれも変わる事はあるまい。自衛官に”味方しても”票は増えないと思っているからだ。

“こんなに扱われても、我々自衛官は分け隔てなく「身を挺して”市民”を守らねばならない」のだが、妻子はそうではあるまい!

市民の代表?である市長がこれではいけない。ご遺族も三沢市民であり市民税を払っているのだから、市長は無自覚の内に“差別している”ことになろう。

市長はお悔やみを言ってしかるべきだ。

猛反省してほしいと思う。

 

2つ目は「F35A墜落の原因究明と対策を急げ」と題した国基研事務局長 黒澤聖二氏の文であり、最後に「他方、これまでの事故報道を見ていると、操縦士の安否を気遣う報道が少ないと感じる。事故に遭ったのが、危険を顧みずに国を守る覚悟の軍人であっても、事故原因の探求の前に「まずは捜索救難に全力を」が世界の常識だと思う。無人機ならともかく、墜落前に最後の通信を発したのは血の通うパイロットだ。もっと隊員を大事に扱って欲しい」と書いた。これが常識ある大人の考え方であろう。

 

ところで今日は新聞休刊日だが、昨日の産経「新聞に喝」欄にジャーナリストの門田氏が「新聞にとって“平成時代”とは」と言うコラムを書いている。

 

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主題は次期元号の「令和」にクレームを付けた朝日、毎日に対して「令和の時代も日本そのものを貶めようとする報道は続くだろう。しかし、外国の新聞ならいざ知らず、これからもそれが日本で通用すると思い込んでいる新聞社のお歴々にはいうべき言葉もない」と酷評している。

そこで敢えて私の体験から、これらの新聞は「外国の新聞」なのだと伝えておこうと思う。

平成10(1998)年7月、アジア安保研修旅行で、北京を訪問した時、我々をガイドしてくれていた支那外務省高官が、私に向かって「お宅のチョウニチ新聞…」と蔑んだ顔をして言ったことがあった。一瞬意味が分からず怪訝な顔をした私に、仲間が「先生、朝日のことですよ」と教えてくれたことがあった。

あのころから朝日は“外国の新聞”だったのだ。そう考えればすべてに納得がいくではないか!

 

次は整理中の平成5(1993)年3月8日の日経新聞記事である。

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当時としては珍しく、中国海軍の海洋進出に警鐘を鳴らしていたのだが、誰も関心を示さなかった例である。そして今や我が国のシーレーンのど真ん中に中国海軍の要塞が出来てしまった。

この記事を書いた北京の岡崎記者と、解説した政治部の清水記者は徒労だったと言える・・・

今後は残念ながらこのような良い記事を書いても、ますます国民は新聞記事を相手にしなくなるだろうな~